2011年8月17日水曜日

日本人の危機管理意識(1)

 大和ミュージアム館長で海軍氏研究家の戸髙一成氏は、88日の産経新聞に以下のように寄稿されていました。

今回の東北大震災ならびに原発事故について、5ヶ月が経過しているのに、いまだに震災後の混乱は収まらず、がれきは仮整理も終わらず、被災者の仮設住宅入居さえ完了せず、原発事故に至っては、本格的な収束のめどさえ立たず、原子炉を廃炉するにも少なくとも数十年という単位の日時を要するという。なぜこんなことになったのか。どうも日本人の危機管理意識には、「絶対安全」が「安全」であるという考えがある。絶対の要求は、そもそも危機管理の本質を誤っている。危機管理の本質は、「絶対安全」ではなく、「絶対安全」が破綻したときの「対応」の仕方である。この面において、日本の危機管理意識は大きな見直しを迫られていると書かれています。

ここで、戸高氏は日本海軍が建造した戦艦大和に深くかかわった二人の人物を挙げています。まず一人は、呉海軍工廠で大和建造の設計主任であった牧野茂氏(190296)で、亡くなるまで、大和の沈没に至った経緯に関して自責の念を持っていたそうです。牧野氏は「大和の受けた攻撃と被害は、想定をはるかに超えた大きなものだったので、沈没はやむをえなかった」としながらも、「想定が現実的ではなく、さらに大きな想定を予想し得なかった責任は技術者にある」と語っています。しかし、「浮沈艦を要求されたわけだが、無制限に被害の想定を上げれば、船として成立しなくなる、難しいのだよ」と、苦しい表情をしたそうです。

大和が求められていた防御とは、自身が持つ世界最大の46センチ砲弾、1.5トンに達する砲弾の直撃に耐える、ものだった。もしこれが可能なら、世界中の戦艦の砲撃に耐えられることになり、文字どおり不沈戦艦になるはずであった。設計陣は、この防御にこだわり、成功させたのだが、あまりにも完全であったために、これが破られた場合の研究、訓練が十分でなかった。同時期のアメリカ戦艦は、被害を受けることは当然として、被害を受けた後の対策に重きを置いていたのだ。まさに矛と盾の話を思い出します。

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