tag:blogger.com,1999:blog-41436943258305809702024-02-19T23:58:28.055+09:00Yamaguchi MasumiYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.comBlogger2122125tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-3659671208494290362015-06-16T00:02:00.000+09:002015-06-16T00:02:00.338+09:00消費税上げの回避
昨年4月からの消費税について、黒田東彦日銀総裁は、やっと公式にその悪影響が予想以上であったことを認めた。5月13日の参院デフレ脱却・財政再建調査会で、「予想を超えた大きさだった」と答弁した。「消費増税の影響は軽微」と安易に予想したことが間違いであったわけである。わたしは、税金を増やすことは反対である。小さな政府がいい。大きな政府にすると、小さくしないといけない場合も小さく出来ず、結局増税に頼る。
景気を冷や水ためだけであれば、増税は望ましい。1989年の消費税創設は、バブル景気の真っただ中であり、その当時は、景気に冷や水をかけても問題なかった。しかし、税金が増えることに味を占めた財務省はその後も、必要以上に引き締め、「失われた20年」を招いてしまった。この政策を実行した官僚はどこにいったのだろう。金融政策の典型的な失敗であり、国民を豊かにすることに失敗したいい事例であるYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-40745317709495198022015-06-15T00:02:00.000+09:002015-06-15T00:02:00.330+09:00大阪都構想否決
橋下市長オフィシャルサイトより
大阪都構想に決着に結果が出て、橋下市長や各党、メデイアがどう出るかと思っていたら、音無しである。橋下市長も静かである。傷ついた身体を癒しているのだろうか。次の生活の糧を探しているのであろうか。この騒ぎは何だったのだろうかと不思議に思う。
大阪都構想は、大きくなりすぎた大阪市を5つの特別区に分けて住民参加をしやすくするというものである。反対派は、「そもそも無駄な二重行政はない」「5つの特別区に分けると初期コストがかかる」などと反論した。また、「一度、大阪都になると元に戻れない」と不安をあおる人もいた。さらに「税金や公共料金が上がる」という声もあった。
賛成派は、大阪府がりんくうゲートタワービルに659億円、大阪市が旧WTCに1193億円など、類似プロジェクトへの投資は至る所にあったと言った。
大阪都構想は、海外の大都市や東京Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-33110673079268040372015-06-12T00:02:00.000+09:002015-06-12T00:02:00.192+09:00中国経済危機
中国は、昨年11月以来3度目の政策金利引き下げに踏み切った。不況に陥った国は利下げにより内需を刺激すると同時に、利下げによって誘導される自国通貨安によって輸出をテコ入れをしようとする。
中国の場合、当局は人民元相場を安くするどころか、逆に上昇させている。利下げで景気を暖めながら、為替政策で冷や水をかける。実に矛盾に満ちていると云われている。
中国の外貨準備は昨年6月末をピークに減り続け、ピーク時に比べ昨年12月末で1500億ドル減、今年3月末2630億ドル減となった。中国は、年間3000億ドル前後のペースで外貨を調達しているが、それでも外準が大幅に減る。「世界一の外準保育」を誇っていても見せかけに過ぎず、内実は外貨窮乏症に悩まされている。だからアジアインフラ投資銀行(AIIB)の看板を掲げて、国際金融市場からも借り入れを容易にしようという算段であり、Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-74930093659518835332015-06-11T00:02:00.000+09:002015-06-11T00:02:00.524+09:00東芝ショック
5月29日、東芝は不適切な会計で激震が走った。日経ダウが好調に推移している中で、冷や水をかけたかんじであった。6月25日に一応定時株主総会を開くが、これで終わるものではない。第三者調査委員会の調査結果が、7月中旬に出て、8月中旬に有価証券報告書が出て、9月下旬に臨時株主総会という段取りになる。上場廃止となる可能性は必ずしもゼロではない。実際に決算発表が行われるまでは、不安定な状態が続くだろう。
12年3月期~14年3月期の営業利益を累計で500億円強、下方修正することを必要とした。下方修正がこのレベルで収まるかどうかはまったく不透明である。仮に有価証券報告書に“虚偽記載”があったと認定され、その上で、“影響が重大”と判断されたならば、東芝株は『管理銘柄』へ直行することになる。多分、そうとはならないと思うが。いずれにしろ、大東芝で何が起こったのだろう。まだ、詳Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-85038844869553937112015-06-10T00:02:00.000+09:002015-06-10T00:02:00.031+09:00十八史略(70)-伍子胥と呉越戦争(31)
陶朱公范蠡の墓
范蠡は斉で海辺に耕し、実業にはげみ、数十万金の大資産家になった。斉の人たちは彼に宰相の地位についてほしいと懇願したが、彼はため息をつき、
「尊い名誉を久しく受けることは不祥である」
と言い、集めた財産をすべて知人に分け与え、陶という土地にのがれた。
陶でも彼は実業家として、数億の資産を築いた。陶での彼は、陶朱公と自称したが、中国ではその後、富裕の形容に、「陶朱の富」という語を用いるようになった。
古代では、一、十、百、千、万、億と、正確に十進法に従っていた。だから、億とは十万のことであった。人間の勘定能力が発達するに連れて、万と億にあいだが引き伸ばされ、十万、百万、千万から万万に至って現在の億になった。
宮仕えしては上将軍、宰相と、その位人臣をきわめ、下野してからは巨億の財産家となり、その上、西施のようなYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-60727926545783481932015-06-09T00:02:00.000+09:002015-06-09T00:02:00.165+09:00十八史略(69)-伍子胥と呉越戦争(30)
范蠡と西施像
予想は范蠡のほうが当たっていた。
越の密使がこのことを伝えたところ、夫差は謝して言った。
「私は年老いて、もはや君主に仕えることはできません。ただ、その綬は頂戴いたしましょう」
綬とは官職のしるしとして帯びる印鑑のひもについた飾りで、戦時にあって臨時応変、旗の代用にもした。密使がたずさえていたのは、百家の長の綬であった。巾は三尺である。
綬を受取った夫差は、家臣にむかって、「わしが死んだあと、顔にこの綬をかけてくれ。あの世へ行って、伍子胥に会わせる顔がないからのう」
と言った。
夫差は自刃して果て、呉は滅びた。
ときに周の元王3年(前473)であった。
宿敵の呉を滅ぼしたあと、越は苦労の時代を終え、これから快楽の時代を迎える。
「王もこれまでの王とは違うようになるぞ」
Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-34513817253874461242015-06-08T00:02:00.000+09:002015-06-08T00:02:01.508+09:00十八史略(68)-伍子胥と呉越戦争(29)
春秋時代の中国
21年前、会稽に包囲された勾践は、その身を殺され、国土を奪われるところまで追い詰められ、夫差の温情で救われた。いま、その返しとして、夫差を救ってやってもよいのではないか。
このとき、范蠡は立ち上がっていった。
「会稽のことは、天が越を呉に与えたのに、呉王夫差が天に逆らって受け取らなかっただけですぞ。いま天が呉を越に賜うのであります。天に逆らえるでしょうか?ごらんなさい、21年前、天に逆らった者の運命が、目の前にございます」
「むごいことよのう」
越王勾践は呟いた。
范蠡はかまわずに太鼓を打った。
「講和は拒否された。呉の使者よ、早々に立ち去るがよい」
呉の使者公孫雄は泣いて去った。
「わしはせめて夫差の命は助けたい。そのかわり、呉の国はのこさぬことにする。どうじゃな」
「夫差をどうなさいますYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-1472895235957641452015-06-05T00:02:00.000+09:002015-06-05T00:02:00.538+09:00十八史略(67)-伍子胥と呉越戦争(28)
蘇州博物館:呉王夫差の剣
太子の友が殺されたという情報は、夫差に衝撃を与えた。
太子の殺害は、越の自信を示している。
夫差もさすがに事の重大さを悟り、宋を討つことをやめて、まっすぐに帰国した。
王の命令で、破損された宮殿、庭園の修理が、最優先された。庶民の生活に関連のある場の損害は、あとまわしにされた。軍事施設の回復も、なかなかはかどらない。越では呉から持って帰った戦利品は、民生の面にまわされ、軍備もますます拡張された。
差はひらくばかりである。
覇者になりたいばかりに、「正義の味方」を気取り、あちこちに出兵していた。いつの時代の戦争でも、優秀な兵士が真っ先に死ぬものなのだ。気がついてみると、呉には精兵はいなくなっていた。
越は手をゆるめない。ときどき国境線をつっつく。呉兵は翻弄され、土地を割譲したり、賠償金を支払うことで、その場を糊塗する始末でYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-65722618030481298652015-06-04T00:02:00.000+09:002015-06-04T00:02:00.150+09:00十八史略(66)-伍子胥と呉越戦争(27)
黄池会盟 呉王夫差 晋の定公と覇権を争う
越兵が呉都に乱入したしらせは、早馬によって、黄池にいる夫差にもたらされた。
「小癪な!」
「この事実を外に漏らす者は斬る!」
と夫差は厳重な箝口令をしいた。
秘密漏洩のかどで、斬刑に処せられた者が7名いた、とある。黄池の会盟は、結局晋の定公が長となった。地理的に、いつでも大軍を繰り出すことができたので、その力のまえには、夫差もどうすることもできなかった。
「大王さま、勾践のような賤しい者の名を、そう口になさいますな」
と、西施は眉をしかめて言った。
夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。片時も離さなかった。西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。当時、呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-13543201771560928542015-06-03T00:02:00.000+09:002015-06-03T00:02:00.298+09:00十八史略(65)-伍子胥と呉越戦争(26)
呉に攻め込んでの戦いは、水戦が主になるだろう。それを予想して、越では水軍の訓練に力を入れていた。4万の将士に、水泳の名手二千を配し、親衛軍と幕僚6千、兵站経理などを司る官員一千。これが越の討呉軍であった。
国を空っぽにしている呉が、この越の精兵を支え切れるわけはない。
「なに越兵だと?まさか」
少数の留守部隊も、越兵侵攻の知らせを聞いて、しばらく半信半疑であった。
范蠡の指導した「恭順作戦」がみごとに成功したともいえる。勾践のうやうやしさは、とても見せかけとは思えなかった。
それを見破りうる唯一の人材伍子胥(ごししょ)は、すでにこの世の人ではなかった。
周の敬王38年(前482)の6月に、越軍は呉に攻め込んだ。乙酉の日に、越兵5千が呉の留守部隊を、呉都の前方で撃滅した。呉の太子の友は捕虜となった。丁亥の日には、越兵が呉都に入った。Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-75059584071100084322015-06-02T00:02:00.000+09:002015-06-02T00:02:00.454+09:00十八史略(64)-伍子胥と呉越戦争(25)
越王勾践
伍子胥亡きあと、もはや諌言の臣はいない。
子胥が死んで3年たった。
越王勾践は范蠡を呼び、「子胥亡きあと、呉には人材はいない。そろそろ兵をむけようか?」
と訊ねた。
「もうしばらくお待ちなさいませ。いまの呉は、たいへんな速度で、国力を消耗させております。遠からず好機が来るでしょう」
と、范蠡は答えた。
独り立ちおぼつかないわと死ぬ前に伍子胥がそう言ったと聞き、呉王夫差は発奮した。夫差は覇者になることに熱中した。
一種の道楽である。呉国のためではない。死んだ伍子胥にたいする意地もあった。
伍子胥が息子を託した斉の大臣鮑氏は、主君の悼公と折合いが悪く、 いつか誅殺されそうだ、それなら先手をうってやろうと、悼公を殺してしまった。
「不忠の臣である。天に代わって伐つ」
呉王夫差は礼儀に従って門外Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-86193229134670371982015-06-01T02:37:00.002+09:002015-06-01T02:37:57.579+09:00十八史略(63)-伍子胥と呉越戦争(24)
呉王夫差は、彼女にために宮殿をさかんに造営した。宮殿や庭園の造営には、ずいぶん費用がかかり、それだけ国力が削られた。伍子胥の諫言は、このころになると、もはや逆効果でしかなかった。息子を斉にのこしてきたのも、伍子胥が呉に絶望したからであった。
呉王夫差はそれを指摘した。
「申しのこすことはあるか?」
呉王の使者が来たので、伍子胥は跪いているのである。
伍子胥は目を開いた。そこには名剣「属鏤(しょくる)」が置かれている。王が彼に下賜したものだ。たんなる贈物ではない。その剣で自殺せよ、というのである。
使者は、申しひらきではなく、申しのこすことはないかと訊いたのだった。
士大夫は弁解しないのが、中国古代のしきたりである。君主に疑われたなら死ぬほかない。それだけに、身を慎むことを要した。
「王に伝えよ」
伍子胥はそういってYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-84548277630001306322015-05-31T00:01:00.000+09:002015-05-31T00:01:00.424+09:00十八史略(62)-伍子胥と呉越戦争(23)
使者の一行のなかに、彼は自分の息子を加えて、帰国のときは斉にのこした。斉の大臣の鮑氏にその息子を託した。
このことを夫差に告げたのは、西施であった。
「西施よ、どうしたのか?からだの工合が悪いのか?」
「からだではございませぬ。心の工合が良くないのでございます」
「からだは別だが、心はおなじ、と思っていた。からだの工合が悪いのには気づかないでも、心の揺れうごきはすぐにわかるはずだった。それがわからないとは。教えてくれ、心のどこが痛むのか?」
「あたしはもと貧しい洗濯女でございました。こうしてお情けを受けておりますが、いまは故郷の苧羅村に帰って、また川で衣類を洗う生活に戻りとうございます」
「なぜじゃ?わしのそばにいたくないと申すのか?」
「そうではございません。ただおそろしくて。あの方でございます」
「伍子胥だな」
Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-31841847351316669102015-05-30T00:01:00.000+09:002015-05-30T00:01:00.184+09:00十八史略(61)-伍子胥と呉越戦争(22)
夫差即位11年(前485)、呉は動員令を下し、再び北伐を強行しようとした。
「斉を攻めるよりも、わが国にとって腹心の病根とでも言うべき越を、まず滅ぼさねばなりませぬ。でなければ、いつ背後を襲われるか、知れたものではありませんぞ」
夫差は唇を突き出して、「その越はのう、こんどの北伐に、かねて訓練した兵の三分の二を従軍させる、と申しておるぞ。それから、戦費も負担するそうじゃ。それが、わが背後を襲うかの?」
「ますますご用心なさいませ」
「おまえにはついて行けぬは」
顔さえ見たくない夫差は伍子胥を遠ざける方法を考えた。
「おまえは越のことばかり申して、斉の事情すら知らぬではないか。使者として派遣するから、一度斉を見て参れ。」
「命令でございますか?」
「そうじゃ」
「それでは、仕方がありません。行って参りましょう」
Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-24574781039947013142015-05-29T00:01:00.000+09:002015-05-29T00:01:00.086+09:00十八史略(60)-伍子胥と呉越戦争(21)
蘇州城内の伍子胥像.
はたして伍子胥は、満面に朱をそそぎ、太い眉を吊り上げて回廊を走ってきて、反対した。
「范蠡の釈放は、すでに決めたことだ」
夫差は冷たく言い捨てた。
「勾践を許すときの約束でございましたぞ」
と、それでも伍子胥は詰め寄った。
彼の怒りは、あるじ夫差の心に、ふしぎな喜悦を導いた。
「勾践と范蠡の主従を、分離するという方針であった。しかし、勾践はたびたび呉に来て参内しておる。勾践は一年の半ばを呉と越ですごしておるのだから、范蠡をどちらに置いてもおなじではないか」
「おなじではございませぬ。越に放てば、手が届かなくなります。虎を放つようなものです」
「越はわが属国ぞ。どこにも手は届くわ」
「越では国もとの大夫種が、兵を訓練しているということです」
「知っておる。呉国に危急のときに、Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-65770342952496773412015-05-28T00:01:00.000+09:002015-05-28T00:01:00.191+09:00十八史略(59)-伍子胥と呉越戦争(20)
蠡園の西施像
越の降伏後5年、呉王夫差(ふさ)は斉に出兵した。60年に近い治世をおこなった斉の景公が死に、その後、斉の国は乱れていた。上昇志向の強い夫差はこれを狙った。
「出兵の好機ぞ」と、夫差は判断した。
「背後に越があることをお忘れなく」と、伍子胥(ごししょ)は諫めて言った。
「越になにができるというのか」
夫差は構わずに北伐の兵をおこし、斉軍を艾陵というところで破った。
自分も南方の後進国風情であることを忘れていた。謙虚さを欠いていた。
越王勾践(こうせん)はあくまでも恭順を装っていた。妻とともに呉に出向くと、呉王に仕えること奴婢のようであった。呉王は勾践に、石室に住まわせ、わが父闔閭(こうりょ)の墓の番人をさせたりもした。勾践は唯々として、墓の番人をつとめた。墓域の草とりなどもした。
「この男、もはや王としてのYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-4975021680620776872015-05-27T00:01:00.000+09:002015-05-27T00:01:00.219+09:00十八史略(58)-伍子胥と呉越戦争(19)
蚶満寺境内に建つ西施の石像
范蠡によって夫差好みに育てられた女は西施(せいし)という。
勾践のかすかな非難の表情を見て、范蠡は
「これは、昔から使われた手法です。かの妲己(だっき)も殷の紂王を暴虐に誘い、殷を滅亡させるために育てられた女でした」
勾践は、今となっては、これに期待せねばならないが、憮然とした表情をした。
勾践はあまり期待をしなかったが、西施が呉王夫差を動かした。
西施の役目は、それほど難しいものではなかった。
臥薪している夫差を本来の性格に戻すだけでよかった。
夫差は復讐の怨念の仮面を被るはいやで堪らなかった。
今、会稽山を厳重に囲み、父の仇の越王は袋のネズミであった。復習は、もう果たされたも同然であると思った。
そこに西施というすばらしい美少女が現れた。この世の汚れを知らぬ処女であった。Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-68431465976578869492015-05-26T00:01:00.000+09:002015-05-26T00:01:00.440+09:00十八史略(57)-伍子胥と呉越戦争(18)
「范蠡、そなたの言葉に従わなかったためにこういう羽目に陥った。しかし、どうしたらよいであろうか」
勾践は范蠡の前にうなだれた。
范蠡は答えた。
「恥を忍んで降伏する以外にないでしょう。越の宝物をすべて呉に献上し、わが君自らが、呉王にお仕えなさい」
「わたしに夫差の奴隷になれと申すのか」
「奴隷になれたら、めっけものです。命があれば今日の恥を雪ぐ日もございましょう」
「夫差はわたしを許すであろうか」
「伍子胥が反対するでしょう」
「それでは、わたしの命はないではないか」
「呉王夫差が必ずしも伍子胥の進言を聞くとはかぎりません」
「しかし、夫差は伍子胥の言を聞くこと父のごとしというぞ」
「呉の重臣は伍子胥だけではありません。伯嚭もかなりの影響力をもっています。この男、財物に弱いと聞いております」Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-75860460430639196802015-05-25T00:01:00.000+09:002015-05-25T00:01:00.131+09:00十八史略(56)-伍子胥と呉越戦争(17)
闔閭(こうりょ)のあと、夫差(ふさ)が即位した。夫差は父との約束を忘れぬように、宮殿の庭先に兵士を立たせ、自分が出入りするたびに、
「夫差よ!父が越王勾践に殺されたことを忘れたのか!」と大声で叫ばせた。そして、
「いえ、けっして忘れはいたしませぬ」と答えた。
夫差もついつい忘れそうになったが、庭先の兵士の怒号で体を震わせた。
夫差は伍子胥(ごししょ)がそばにいると体が竦む気がした。庭先の兵士が教えられたとおりの言葉を叫ぶと、伍子胥の唇が冷笑しているように思えた。
伍子胥の楚の平王に対する怨恨はじつに凄まじいものであった。16年経っても薄くならず、かれは平王の屍体を形がとどめぬほどに滅多打ちした。おっとりとした江南の夫差にはできぬことであった。夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎていると不快に思うこともあった。
夫差は自らの意志がYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-87447272489196365612015-05-24T00:01:00.000+09:002015-05-24T00:01:00.229+09:00十八史略(55)-伍子胥と呉越戦争(16)
復讐の春秋 臥薪嘗胆より
新しく即位した夫差は、宮殿の庭先に家臣を立たせ、自分が出入りするたびに、
「夫差よ!越王勾践がおまえの父王を殺したことをもう忘れたのか!」
と、大声で叫ばせた。
呉王夫差は、そのたびに越軍に追いまくられ、父が亡くなったときを思い出して、屈辱に震えた。
そして、
「いえ、忘れはいたしませぬ」
と、答えるのであった。
夫差は庭先の家臣の言葉を父の霊からの言葉として聞いた。
憎しみは時間とともに薄くなる。
夫差はそれを忘れぬために、家臣に父の霊の代役を命じた。
伍子胥は楚の平王に対する怨恨はじつに激しいものであった。
16年たっても少しも薄れずかれは、平王の屍体を滅多打ちにした。
だが、江南の文化人である夫差は伍子胥ほど徹底した復讐心は持たなかった。逆に夫差はYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-85891195498374774162015-05-23T00:01:00.000+09:002015-05-23T00:01:00.203+09:00十八史略(54)-伍子胥と呉越戦争(15)
范蠡は
「兵を退くか、奇策を用いるかでしょう」
「兵を退けば、呉軍は勢いに乗って追撃してくるであろう」
「奇策は成功するとはかぎりません」
勾践は
「仕方がない。ここは奇策に賭けよう」
と覚悟を決めた。
大夫の霊姑浮(れいこふ)は
「われわれ、力仕事ならば、なんでもするが、奇策は駄目だ。奇策は范蠡どのにお願いするしかない」
と、范蠡を急かした。
「従軍している重罪人は60名でしたな」
今から言う奇策をいうのを躊躇われた。
「囚人をどうするのです」
霊姑浮が、またも急かした。
「かれらに死んでもらいましょう」
と、范蠡は答えた。あと、腕組みをした。
かれは60名の囚人を集めて言った。
「諸君の命を貰いたい。そのかわりの諸君の家族には大きな恩賞を与える。ここで約束しよう。文書にも残しておく。諸君の命で越を救い、諸君のYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-47289671057118289062015-05-22T00:01:00.000+09:002015-05-22T00:01:00.115+09:00十八史略(53)-伍子胥と呉越戦争(14)
范蠡
呉軍は勝っている間は、背後の越は気にならなかったが、負けると越が堪えるようになってきた。
これを呉王闔閭の弟の夫概(ふがい)は、この状況に目をつけていた。夫概は勇猛で知られており、闔閭は内心恐れていた。今回の楚遠征でも夫概が独断専行し、楚の本陣に殴り込みをかけ、結果的には楚軍を敗走させた。夫概は野戦で勝つたびに自信をつけた。
そして、王位を狙おうと考え始めた。
夫概はひそかに戦線を離脱すると、呉の本国に帰って自立した。
ーー夫概、帰国して、王と称す
という知らせが入ると、闔閭は烈火の如く怒り、全軍を率いて、帰国した。
夫概は自信過剰で、現状の見極めが出来ていなかった。
兄闔閭の軍に一蹴された。命からがら逃げ出し、あろうことか、これまで戦った楚に亡命した。楚はかれを受け入れて、堂谿(どうけい)という土地を与えた。
Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-67626255912821112342015-05-21T00:01:00.000+09:002015-05-21T00:01:00.183+09:00十八史略(52)-伍子胥と呉越戦争(13)
7日7晩泣き続けたといわれる申包胥
「かならず楚を滅ぼしてみせる」
と、かつて伍子胥が言ったときに親友の申包胥は
「それなら、わたしは楚を興してみせる」と、答えた。
申包胥は、まっすぐに秦に行き、援軍を乞うた。
秦は断った。
申包胥は秦の宮殿の前の広場にて、7日7晩、泣き続けた。
飲まず食わずで泣き続けたのである。
伍子胥に負けぬ執念であった。
これには、秦の哀公も感動した。
哀公は大声で、『無衣』の詩を謡った。
君は衣がないわけじゃないが
きみと同じ服を着よう
いざ王が兵をおこすとき
われらは槍を磨き
きみと同じ敵に向かおう
という歌詞である。
これは秦の歌謡で『詩経』に収録されている。
――君と同じ敵に向かYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-42479753900638757192015-05-20T00:01:00.000+09:002015-05-20T00:01:00.320+09:00十八史略(51)-呉越戦争(12)
楚では、新王のもとで、新しい体制が構築され、前の王の時代の権力者が、次々と粛清された。
名門の伯州犂(はくしゅうり)も粛清され、その孫の伯嚭(はくひ)が呉に亡命した。
「お互いに楚の王には怨みが深いのう」
と、伯嚭が伍子胥に言った。
「あんたの怨みはわたしの怨みよりも深いかな」
と、伍子胥が言った。
「それは、わしの方が深いだろう。わしなら楚王の血につながる者を養おうとはせぬわ」
伯嚭は、勝ったと言わんばかりの顔をして、呉でえらくなった伍子胥の前から去った。
たしかに伍子胥は楚の太子建とともに亡命し、建が鄭で殺されてからは、その子の勝を連れて、道中、病気になり、乞食までし、懸賞金をかけられてまで、楚王の血をひく勝を離さなかった。
伯嚭が帰った後、伍子胥は、たしかにそういう考え方もあるなと考えていると、うしYamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4143694325830580970.post-16335667052377457172015-05-19T00:01:00.000+09:002015-05-19T00:01:00.129+09:00十八史略(50)-呉越戦争(11)
光は、すぐに即位した。呉王闔閭(こうりょ)である。
闔閭が即位して、真っ先にやったのは、専諸の子を上卿(大臣)に取り立てることであった。
その翌日、新王の使者が伍子胥のところに迎えに来た。
呉王闔閭は伍子胥を「行人(こうじん)」に任命した。
行人は外相に相当するとも言われるが、もっと要職である。行人は王のまつりごとを補佐するわけであるが、宰相と考えていいだろう。
このとき、闔閭の叔父で、父諸樊の末弟である季札は、使者として晋に行っていた。
季札は、賢人の誉れが高い。闔閭の祖父の寿夢は、末子の季札に王位を譲ろうと考えていたが、当人が受けず、そのために王位が横に横に回されたことは前に述べた。
季札が、晋から戻ると、国人はかれの発言を固唾をのんで待ち構えた。
季札は呉の王となるべき人物であった。それを譲りに譲り、Yamaguchi Masumihttp://www.blogger.com/profile/09193015583718464225noreply@blogger.com0