――それにしても、あの大津波からよく逃げられたね。
「ちゃんと訓練してきたもん。年に一度、チリ地震の記念日(5月24日)にあわせて避難訓練があるの。自衛隊のヘリまで出勤する本格的な訓練なんだから」
ここでは、避難訓練は役に立ったようです。地震があって津波が来るまでには30分くらいはかかるようですから、とりあえず着の身着のままであれば、命まではなくさなくてすむようです。石巻市の大川小学校では、警報も遅れた上にどこに避難するかも明示されていなかったようですので、地震予知に金をかけるよりは、警報網の整備と避難経路、避難訓練をきちんとやっておく方が余程役に立つように思います。
「いま、火事場ドロボーみたいな連中が、あちこちに出没しているらしいの。5、6人の集団が車で乗り付けて、無人の家の中に入り込んで金目のものを盗んでいくらしいの。ガラスを割って進入するんですって。津波で流された車からガソリンなんかも抜き取るそうよ。だからここでは、いま夜間パトロールしているのよ」
これは、オカマのヒデ坊の言です。
佐野氏は「地獄の閻魔大王の使いの奪衣婆のような話である。奪衣婆とは、三途の川の渡し賃の六文銭を持ってこなかった亡者の衣服をはぎ取る老婆のことである。
地震直後、東京新聞に寄稿した短文に「これほどの大震災に遭いながら、略奪一つ行われなかった日本人のつつましさも、誇りをもって未来に伝えよう」と書いた。だがこの話を聞いて、そんなナイーブな考えも改めなければならないかもしれない、と複雑な気持ちになった。この未曾有の大震災は、人間の崇高さも醜悪さも容赦なくあぶり出す」と書いています。
「大船渡の北の釜石の被災状況はひどかった。だが、さらに、その先の大槌町の被災状況は、それ以上だった。大槌町は、井上ひさしの「吉里吉里人」のモデルとして知られた町である。
見渡す限り焼け野原と化した惨状は、井上ひさしが『吉里吉里人』で描いた理想の村とはまるで正反対の悪夢の世界だった。東北をこよなく愛した井上ひさしが、この大震災を知らずに他界したのは、せめてもの救いだったかもしれない」と佐野氏は書いています。
このあと、佐野氏は宮古から田老地区に入ります。
「田老地区は、2万2千人あまりの犠牲者を出した明治29(1896)年6月15日の大津波でも、3千人あまりの犠牲者を出した昭和8(1933)年3月3日の大津波でも、最も甚大な人的被害を蒙ったところである。
明治大津波では、田老村の全人口2248人中、実にその83.1%に相当する1867人が死亡し、130戸が一家全滅した。
また昭和大津波では全人口1798人中、その42.4%にあたる763人が死亡し、家屋も全世帯の98%に相当する358戸が全滅した。
痛ましいのは、明治大津波が旧暦の端午の節句、昭和大津波が桃の節句に襲ってきたことである。二つの大津波は多くの子供たちのかけがえのない命を奪った。
田老地区は見渡す限り瓦礫の荒野だった。それは、昭和大津波で全滅した田老村を撮影した古い写真とそっくりの光景だった。
その後、東大地震研究所の現地調査で田老地区を襲った津波の高さは37.9メートルにまで達していたことがわかった。これまで日本で観測された津波の最大の高さは、明治三陸津波時大船渡で確認された38.2メートルだが、同研究所によれば、今回の津波の高さはこれに匹敵するか、場合によっては上回るのではないか、としている」
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