2011年11月24日木曜日

佐野眞一の津波と原発(1)

 “東日本大震災にノンフィクション界の巨人が挑む”という帯に魅かれて、佐野眞一氏の「津波と原発」を読みました。

 佐野氏は地震発生の1週間後の318日に庄内空港に飛び、まず鶴岡市内で、翌日からの取材に備えてカップ麺、菓子パンなどを調達しました。翌日、ホテルからチャーターしたタクシーで朝6時に出発し、宮城県の南三陸町を目指しました。

 一般車が通行止めになっている東北自動車道や三陸自動車道に入れたのは、事前に緊急車両の登録をしていたためで、それでも道路が寸断されており、何ヵ所かで高速道を下ろされました。そのあとは、実際に津波の痕を取材しています。

被害を受けた公立志津川病院では、母親を探しに来た人と会います。

 ――避難訓練は役に立たなかったんですか。

 「役に立ちませんでしたね。最初の警報では高さ6メートルの津波と言っていましたが、その3倍はありました。津波というと、ふだんから津波警報に慣れている私でさえ、高波が襲ってくるものだと思っていました。でも今回の津波はまったく違いました。海そのものが巨大な壁になって街にのしかかってきたんです。地震がきてから津波がくるまでの時間ですか?早かったですね。30分なかったと思います」

このあと、佐野氏は陸前高田市に向かいます。

「三陸地方の漁獲高は、日本の漁獲量全体の15パーセントを占めている。さらに養殖業では4分の1、水産加工業では3分の1を占めている。

そのすべてが、大津波によって一瞬にして崩壊した。失われた三陸地方一帯の漁船は六千隻にもおよぶ。今回の大津波によって、日本漁業に壊滅的衝撃を与えた」と、書いています。

陸前高田市では、想像を超える被害に愕然とします。

「その被害状況は、阪神淡路大震災に直撃された神戸や、同時多発テロに襲われたニューヨークの比ではなかった。あえていうなら、神戸やニューヨークにはまだ人間の体温のぬくもりがあった。

しかし、千年に一度といわれる三陸大震災を象徴する陸前高田の被災現場には、熱もなければ声もなかった。津波がすべてを攫っていった後には、人間の生きる気力を萎えさせ、言葉を無力化させる瓦礫の山しかなかった。ここには人間が生きたという痕跡さえなかった」と綴っています。

 わたしも阪神淡路大震災は、目の前で見ましたが、津波はありませんでした。かわりに火災がありました。家が倒壊して、その下敷きになった人が、類焼してくる火災によって亡くなったという話も聞きましたが、津波はすべてを持っていくようです。

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