2011年11月28日月曜日

佐野眞一の津波と原発(5)

 “定置網の帝王”の異名をとる株式会社山根漁業部専務の山根正治の祖父で山根漁業部を創業した山根三右衛門は、炭焼き業から定置網による漁業に転じて巨万の富を得た立志伝中の人物である。

明治23(1890)年に生まれ、昭和46(1971)年に没した三右衛門は、81年の生涯に大小8つの津波を体験している。

だが、三右衛門は「津波が恐ろしいからといって、漁師が山に逃げていては生きていけねえ」と言って、津波がおさまると、いつも勇猛果敢に海に出た。

昭和2(1927)年には大ブリ6万尾の大漁を記録し、山根御殿と呼ばれる豪邸を建てた。昭和14(1939)年には16(60キロ)の大マグロ7千尾という日本定置網史上最高の漁獲をあげた。

山根氏は、「このままでは日本は、食糧問題で全滅するよ。簡単な話、日本の漁業で年間530万トンを 獲っているうち、1万トンはオレが獲っていたんだ。オレ、ナンバーワンだもん」

被害については、「6艘持っていた船のうち、5艘流された。1艘しか残んねがった」

 「北海道から九州まで全国で船余ってらったら(余っていたら)オレさけろって(くださいと)、売ってけろって。そうせば(そうしたら)オレ、再生できっぺ。船がねば(なければ)どうじようもねんだでば(どおうしようもないんだよ)

このあと、佐野氏は日本共産党元文化部長で在野の津波研究家の山下文男にインタビューします。

 ――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。

 「僕はあの高田病院の4階に入院していたんです」

 ――えっ、津波は4階まできたんですか。

 「津波が病室の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです。

 最後まで見届けようと思った。と同時に、4階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも災害が少なかった。昭和津波では2人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が。

窓から津波を見ていた。ところが、4階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。

ドドーン、ドドーンという音が2発して、3発目に4階の窓から波しぶきあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで身届けようと思っていた僕もさらわれ、僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした。

水嵩は2メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた..

そうそう。そのうち今度は引き波になった。引き波というのはすさまじいもんだ。押し寄せる波の何倍も力がある」

51人の入院患者中、15人が死んだことは後で調べて分かった。

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