2010年4月4日日曜日

特捜検察は何をしようとしているのか(3)

 さて第3話です。マスコミ等から提供されたネタで捜査に着手し、何とかそれなりの成果を挙げて捜査を終結させようとして迷走を続け、無理な強制捜査・起訴に至る、というケースが相次いでいます。佐藤栄佐久氏の事件が、その主張通りだとすれば、それは、政治的意図による捜査で「抹殺」されたというより、むしろ、そういう特捜検察の苦し紛れの捜査の犠牲になったと見るべきでしょう。
 日本の検察は、刑事司法の「正義」を独占して来ました。つまり、刑事司法は、すべての刑事事件が検察官によって「正しく処理されている」と信じて来ました。検察は、原則として、刑事処分などの判断について公式に説明を求められることはありません。不起訴処分について判断の理由の説明が公式に行われることはありません、不起訴記録も開示されません。したがって、今回の小沢幹事長の不起訴の理由もまったく公開されていません。
 検察の判断の適正さは、その理由を外部に説明することではなく、基本的には、「個々の検察官の判断ではなく検察庁の組織としての判断が行われる」ということによって維持されてきました。
このように「刑事司法の正義」を検察が独占する構図は、殺人、強盗などの伝統的な犯罪、伝統的な刑事司法の領域には合っているかもしれません。犯罪行為の反社会性は明らかで、犯罪者の多くは社会から逸脱した者です。事実が認められる限り処罰されるべきことに基本的に異論はありません。問題になるのは、証拠によって事実が認定できるかどうかです。今回の足利事件を見ても検察の独善が際立っており、無実の人の自由を17年間も奪いました。閉ざされた検察組織だけで政治・社会・経済を判断するのは、難しいと思います。例外的に社会の中心部で活躍する政治家、経済人などを摘発の対象にし、社会的に大きな影響を与える捜査の遂行を使命とされてきたのが特捜検察です。そこで対象とされるのは、政治・社会・経済の中心部分で起きている複雑・多様な事象そのものであり、刑事罰の適用に関しては社会的な価値判断が求められます。
 そのような社会の事象を、どのような観点でとらえ、どのように評価していくのかの判断を、検察の組織という閉ざされた世界の中だけで適切に行うことは、もともと容易ではなく、不適切です。しかも、その困難さは、社会・経済の複雑化・多様化に伴って一層顕著となっています。
 1990年代以降、日本の経済社会において、企業、官庁などあらゆる組織が構造変革を迫られる中、組織内で自己完結した「正義」に依存し、旧来の捜査手法にこだわり続けた特捜検察は、社会・経済の変化に大きく取り残されたといえます。そして、面目と看板を何とか維持しようとして「迷走」を続けてきました。
 そうした「迷走」が限界に近づきつつある状況で行われたのが福島県知事をターゲットとする東京地検特捜部の捜査でしたが、それは、結局、土地取引を巡る疑惑を報じて捜査の発端となった週刊誌の記事とほとんど同レベルの事実しか明らかにできず、その事実を無理やり贈収賄の構成に当てはめただけという結果に終わりました。
 かつては特捜検察が起訴した事件について裁判所が消極判断を示すことはほとんどありませんでしたが、昨年7月の長銀事件についての最高裁の逆転無罪判決、つい最近のPCIの元社長の背任事件の一審無罪判決などに見られまよすうに、裁判所の特捜検察に対する見方は次第に変わってきているようにも思えます。今回の事件に対して東京高裁がどのような判断を示すか、控訴審判決が注目されますが、このような背景にあっては、控訴や逮捕されただけで、議員辞職しろとは、非常に乱暴な発言といえます。(以降、明日へ)

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