2009年12月26日土曜日

司馬遼太郎のフィラデルフィア

 これも「アメリカ素描」の中にあります。わたしは、ボルチモアで数日、過ごしましたが、フィラデルフィアには、行きませんでした。この文章を読んで、残念に思います。機会があれば是非行ってみたいと思います。以下、司馬氏の文章です。
 アメリカにきておどろいたことのひとつは、機能を失った都市を、平然と廃品同然にしていることだった。フィラデルフィア市を見てそうおもった。日本でいえば、大阪を廃品にするようなものである。(中略)幕府が倒れて、大阪の商権が消滅し、その機能は半減した。げんに、明治初年、大阪の人口は激減している。この時期に、アメリカ流でいえば大阪は廃品になってもよかったのである。
 (都市の使い捨てというのがあるのか)
とおもうほどのショックをうけたのは、ワシントンからニューヨークにもどる途中、列車の窓からフィラデルフィアの鉄鋼製構造物の巨大な廃墟群をみたときだった。
 ぬしをうしなった造船所や人気のない造機工場、あるいは鉄道車両工場といった、19世紀末から20世紀の半ばまでの花形産業が、いまは河畔に「ながながと残骸の列をさらしている。
「かれ(資本)は、どこへ行ってしまったんだ」
と、私は思った。
 明治のころ、日本ではこの街は、
「費府」
と書かれていた。
フィラデルフィア市は、日本史年表でいえば、明治初年までは、ニューヨークを越える都市だった。
 その後も金融の中心であるニューヨークに対し、重工業の中心として、あるいは大きな商業の中心として栄えつづけた。
 明治政府はロシアの南下にそなえてこの街の私立造船所に軍艦を注文した。ところがおなじ造船所に帝政ロシアも戦艦を注文していたのである。その双方が、数奇にも日本海で開戦を演ずることになる。
 第1次世界大戦ではここは世界の造船所だったし、アメリカを走る機関車のほとんどはこの街で誕生した。そのほか、繊維、食肉加工、製紙、印刷など、19世紀から20世紀のある時期までのアメリカ生活をささえるほとんどの工業製品がこの街でできた。
 それが、いま過去の街になっている。
「19世紀的な工業はすべて儲からない時代になった。だからやめる」
という露骨さがアメリカ経済の伝統的な“単純さ”であるとすれば、その象徴が、すでに鉄鋼業の墓地になったフィラデルフィア市ではあるまいか。
 これらのフィラデルフィアが担っていた造船業を日本が奪い、そして韓国が奪っていったのでしょう。このフィラデルフィアは英国からの独立戦争を勝ち取ったところでもあります。この記念日には、テレビで流されますが、司馬氏の眺めた鉄鋼製構造物の巨大な廃墟群は映しません。日本で言えば、京都的な存在でしょうか。それは、ボストンだという人がいるかも分かりません。アメリカ人のダイナミックさは、大西部時代のように家族とともに動くことでしょうか。そして、金鉱を見つける。昔は、金鉱でしたが、それがサンノゼのようなベンチャーであったりするのでしょう。この点、残念ながら、日本には、そのダイナミックさが欠けるようです。もっともっと動いてもいいのではないでしょうか。わたしなどは、毎週、関西と東京、中国を移動しています。こういうミツバチ的な動きではなく、どっしりした動きが必要なのでしょう。日本の産業全体を動かすような企業が、地方から立ちあがってほしいものです。
 

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