2009年12月9日水曜日

正岡子規と奈良

 NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」では、秋山兄弟とともに子規もよく出てくるはずですが、子規は、奈良にも立ち寄っています。有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を法隆寺の境内で詠んでいます。この法隆寺のある斑鳩の里は、柿も多くとれます。正月用の干し柿も多くの農家で作られています。この句を詠んだ時に子規は甘柿を食べたのでしょうか、干し柿を食べたのでしょうかと疑問に思いました。法隆寺と柿を一緒に撮れるところはないものかと、散々探したことがあります。そして、法隆寺の五重塔の見える立派な柿畑を訪ね当てました。そして、1個、失敬しました。皮をむくことなく、ハンカチで拭いてがぶりといったのですが、ものの見事に渋柿でした。口の中が、しばらく渋くて、やはり悪いことは出来ません。こういう観光客が来るところは、渋柿を植えているものだと納得しました。しかし、子規が法隆寺を訪れたのは、10月26日です。干し柿には少し早いので、境内で食べたのは、甘柿だったのでしょう。子規がこの句を詠んだ日の10月26日に因んで、この日は「柿の日」に制定されています。
 子規は、この年、日清戦争への従軍を希望し、近衛連隊付きとなって、旅順などを回っています。そして、5月17日の帰国の船上で喀血。5月23日には、県立神戸病院に入院しています。その後、8月には退院して、郷里の松山に戻り、松山中学校教員をしていた夏目金之助(夏目漱石)の下宿に転がり込んでいます。秋になって、松山を立ち、10月26日に法隆寺を訪ねたということです。このあと、どこに行ったかは、わたしは知りませんが、
宿泊しましたのは、登大路の交差点を北に行った旅館「對山楼」でした。今、ここは、日本料理の天平倶楽部になり、子規の孫にあたる正岡明(64)氏が「子規の庭」を造園しています。子規の孫さんは、意外や、造園師になっているのです。子規は31日には、東京に戻っています。
 子規は結局、妻帯していません。子規の妹の律は結婚しましたが、子規の面倒をみる必要があったのでしょう。離婚しています。小説を読んでおられない方は、テレビの中で菅野美穂演じる律が、東京に出て来るので、秋山真之と結婚するように思われる方もおられるかも分かりませんが、実際は、結婚いたしません。
 子規は、上京するにあたって、叔父で外交官の加藤拓川の世話になります。拓川は、新聞「日本」社主でジャーナリストで親友の陸羯南(くがかつなん)に子規の面倒を依頼します。子規は「日本」の紙面で、俳句や短歌の革新を進めることになりました。これなくして、子規の人生は変わっていたでしょう。
 この拓川の三男の忠三郎(明氏の父)氏が、子規の妹、律の養子となって正岡家を継ぎました。したがって、明氏は、拓川氏の実孫でもあり、律の孫にもなります。子規は、「律なしには一日も生きていけない」と書いています。病魔に侵されながらも、気丈夫に次々と作品を発表しながらも、律には安心して、頼ったようです。
 子規は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んで以降、奈良には来ていないようです。明氏が、なぜ奈良に住むようになったのか、一度、聞きたいと思っています。 子規は、仏像や宗教にはあまり興味を持たなかったのでしょう。飛火野に近い破石町には、志賀直哉が住んだ家が残っており、直哉はここでサロンを作り、多くの文学者が訪れました。平城遷都1300年で、再び奈良が文化的な色彩を濃くすることを期待します。

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