2009年11月26日木曜日

興福寺の北円堂

 “お堂でみる阿修羅”展も11月23日で閉会しました。わたしは、2度ほど通いました。今日は、北円堂について書きます。南円堂は、西国三十三カ所の9番札所としてよく知られていますが、北円堂は、南円堂に比べると、知られていません。北円堂は養老4(720)年に亡くなった藤原不比等の菩提を弔うために長屋王に命じて、一周忌にあたる翌年完成させました。八角堂は廟堂としての意味をもっています。その後、2度焼失しましたが、承元4(1210)年に復興され、その後は、興福寺を襲った2度の火災も免れ、今残る興福寺の伽藍の中でもっとも古いものです。
 今回、阿修羅像がおかれた仮金堂と併催され、拝観が出来ることになりました。通常は、春秋の特別開帳時にしか見ることが出来ません。
 北円堂の諸像は、治承4(1180)年の重衡の南都焼き討ち後に運慶一門によって再興されました。弥勒如来は、源慶と静慶、法苑林菩薩は運覚、大妙相菩薩は作者不明、四天王像は持国天が湛慶、増長天が康運、広目天が康弁、多聞天が康勝、無著は運賀、世親は運助という割り振りで作像されました。総指揮は運慶がとりました。無著・世親像は、運慶の代表作というだけではなく、日本彫刻を代表する名品と云われています。北円堂の建物も国宝ですが、ここに収められている仏像のほとんどが国宝という密度の濃さです。天平の阿修羅像とは違う力強さを感じます。仏教そのものは、天平・奈良時代の方が、純粋であったように思います。興福寺が僧兵を囲ったりしたときから、仏教の頽廃が始まったのでしょう。わたしは、北円堂の国宝の仏像を束にしても阿修羅像一体をとります。北円堂の仏像は、鎌倉時代の特徴で、力強さはありますが、天平時代の仏像の内面から出て来る心のようなものがありません。天平の仏像には、知らず知らずに手を合わせるという気持ちが起こりますが、北円堂の仏像は、その気になりません。
 北円堂の柱なども800年以上の歳月で、皺のようになっていますが、味わいがあります。わずかに残る朱の色にも当時が偲ばれます。
 これらの仏像は、また開帳のときに見られるかと思いますので、奈良に来られた折には、拝観をしてください。奈良の深い良さが分かります。特別開帳の日は、年によって異なります。奈良市の観光課に聞かれますと、すぐに分かるでしょう。奈良は、薬師寺の東塔が解体修理されています。唐招提寺の金堂は、解体修理が終わりました。興福寺の金堂も再建されます。来年は、平城遷都1300年祭があります。古都奈良を是非見直す機会になればと思います。

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