2009年11月2日月曜日

桜井茶臼山古墳

 60年ぶりに奈良県桜井市外山(とび)の茶臼山古墳の再発掘が行われました。各紙でも報道されたので、ご存じの方も多いかと思います。10月29日から31日まで、見学会が行われました。この再発掘のあとは、埋め戻され、次に見られることはまずないだろうということでしたので、見学会に参加して来ました。茶臼山古墳は、南北に中心が通り、全長200m、後円部の直径が110m、同高さが24mの前方後円墳です。石室の中に残る木棺を取り出して保存することを目的に再発掘が行われました。
 石室は竪穴式で、大きさは南北の長さ6.75m、東西約4.8m、深さ約2.9mでした。石室の内部は、当時、金よりも貴重であった水銀朱がふんだんに塗布されており、推定200キロ使われたとされています。水銀朱は神仙思想の解説書「抱朴子」には、不老長寿を実現させる最高の薬と記されています。さらに玉や黄金で身体の穴を塞げば遺体は腐らないとも書かれています。この石室の中にコウヤマキで作られた割竹形木棺が納められていました。こういう状況で、木製で残っていたことが、不思議です。残っている木棺は、長さ4.89m、幅75cm、最大の厚みは27cmと大きなものです。この木棺は、これから2年をかけて保存作業に入ります。四方の壁は、写真のように加工した石が1000枚以上使われていました。そして、木棺の埋葬後は、長さ2.75m、幅76cm、厚さ27cm(最大)、推定重量1.5tの石、12個で閉じられました。今回の再発掘後は、埋め戻され、再び石室が開けられることはないでしょう。
 この古墳は、埴輪で囲われる前の様式で、丸太垣を張り巡らせていました。大王級の古墳は、ほとんどが宮内庁管轄になっており、茶臼山古墳のようには発掘されていません。大和盆地の東南部には、全長200mを越える前方後円墳が6基あります。どれも3世紀後半から100年の間に築造されています。連続する6人の王墓と推定されています。このうち、6基は、天皇かそれに近い人の墓とされています。この茶臼山古墳は誰が埋葬されていたかは、困難と言われています。その中で塚口義信・堺女子短期大学名誉学長は、崇神天皇が日本各地に派遣した「四道将軍」のひとりで、北陸に派遣された「大彦説」をとっています。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、5世紀後半の雄略天皇から大彦に遡る系譜が彫られており、大彦が生きた時代は、3世紀後半に当たるそうです。茶臼山古墳の築造年代とも矛盾しません。いずれにしましても、この茶臼山古墳の被葬者は倭国を支配した王か、領土を拡大した将軍か、被葬者論議もこれから活発になるでしょう。久しぶりの古墳の見学会でした。

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