生前の杉原氏は、折に触れてこう語っていたそうです。「僕は60歳を過ぎた頃から死ぬ準備はできとる。家族には葬式は誰も呼ばんでええと伝えてある」。
棺に納まった杉原は白いハイネックにライトグリーンのセーター、ベージュスラックスというゴルフウエア姿でした。「天国でもすぐにゴルフができるように」と愛用の帽子をはじめ、手袋、ボールマーク、レインウエアなどが納められました。また、用具契約を結んでいたデサントの来季の契約書も入れられたといいます。
杉原氏のがんとの闘いが始まったのは97年、杉原が還暦を迎えた年でした。前立線がんの宣告を受けた時、杉原は、「僕には時間がない、あと2年は第一線でプレーしたい」と言って、手術によって休養に入ることを拒み、女性ホルモンを投与しながらトレーニングを続けるという方法を選びました。
治療を始めてしばらくすると、ドライバーの飛距離が30ヤード以上落ちました。女性ホルモンが筋肉に悪影響を及ぼした結果と判断した杉原氏は、投与を中止して民間療法に希望を託しました。
一時は前立線がんの数値を示すPSA(腫痬マーカー)値が最大23.4から0.3にまで減少。がんを克服したように思われました。ところが、08年、リンパ節への移転が判明しました。
その後2年後には、喉、腹、肺の周辺など11ヵ所への転移が認められました。杉原氏は女性ホルモンの再投与に加え、放射線治療を始めました。この段階での放射線治療は、手遅れだったと思います。
放射線治療を始めてから2~3日で喉に違和感を覚えるようになり。1ヶ月の照射予定を18日間で断念。喉は青紫に腫れ上がりました。
10年10月、放射線治療を断念した直後に、杉原は闘病生活の苦しさをこう語りました。「スポーツドリンクを1缶飲むのに3時間かかる。栄養を考えてトマトジュースにしても、塩分で喉がヒリヒリする。体力がなくなると思い、お茶で無理やりご飯を流し込むけど、食べたらすぐに洗面所に走って戻してしまう。痰もたくさん出た」
杉原氏が「手かざし」と呼ぶ民間療法を独断で始めましたが、これは、がん患部にタオルの上から2時間程度手を当てる気功の一種だといいます。「手をかざして治るわけがない」と家族は説得しましたが、杉原氏は「周りの者は“紛いもんや”というとるが、やってみなわからんやろ」と譲らなかったそうです。
「やはりちゃんとお医者さんにかからないとアカンかったと思う」と晩年、杉原はこう話していました。「がんに冒された僕がいうから説得力があると思うが、がんは早期発見、早期治療が大事」。
わたしも前立腺がんにかかり、前立腺の除去手術を放射線治療を行ったことから言いますと、杉原氏も現役にこだわらず、放射線治療をしていれば、死ぬことはなかったといえます。治療と言っても38日間、日に10分程度の照射のみです。わたしは、放射線治療後、2年近くになりますが、PSA値は、0.3程度と極めて低いものです。今は、4ヶ月に1回程度、血液をとり、検査をすればいいだけです。
杉原氏は頑固だったのでしょう。また、いいアダバイザーに会わなかったのかも分かりません。
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