昨日からの続きです。
3.「人物としての深み」はどこから生まれるか
自分の人生、八十余年の体験から、広くこの世の中を通観してみるに、人生には楽観と悲観、またはそれらを通り越して真の悟道(悟り)に入る、三段階に及ぶ人生観がある。
意気地のない人は、神や仏にとりすがり、山に逃げたり、場合によっては自殺してしまう人もいる。
意気地のある人はどうにかこうにかやり通し、幾多の苦難にたえ忍んで、人生の波瀾曲折を身をもって体験し、深く心に刻み込む。
その結果、ついには、楽は苦の種であること、苦痛はかならずしも苦痛でないこと、そして、苦痛は快楽に進む段階であることを悟るに至る。悲しみを通して喜びを、努力を通して幸福を味わうに及んで、初めて真の楽観を味わうことができる。
「職業の道楽化をめざして奮闘する努力主義」の意味である。
努力は一つの習慣であって、慣れた後には何の苦しみもないが、慣れないうちは苦しいから、現在の仕事に怠慢の人は、たとえ急に得意な仕事が巡ってきても、体すら言うことを聞かない。いっときは努力をしても、たちまち苦しくなって、努力は続かず、ついにせっかくの機会を失ってしまうことになる。
人の真価は、ただ努力によってのみ発揮されるから、努力を欠く人は、せっかく持っている自分の真価を発揮することなく、何一つ成功できずに世を終えることになる。これほど哀れむべきことはない。
人には誰でも、その内部に何か偉大な能力が潜在しているものだが、それが何なのか、なかなかわからない。各人がその長所を発見して、あらゆる場合にそれを発揮しようと努めることで、潜在能力を発揮するしかない。
真の喜びは、すでに達した成功からは生じない。むしろ、これから必ず成功するのだという期待と信念から生じることが多い。この期待と信念は、自分にそれができる可能性があるのを自覚すること、すなわち「自己発見」によって生じるものである。
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