私を原発問題に最初に引きこんだのは、岩本さんでした。
岩本さんは私が勤める郵便局によく来て、『原発は広島や長崎に投じられたのと同じ核だんべ。平和利用というが、とうてい共存できねぇ』と言うんです。非常に情熱的な話しぶりだった。私もそうだと思って、反原発運動に身を投じるようになったんです。
「岩本さんは反原発の町長だと国や県からかなりいじめられた。おまけに、岩本さんの前に町長の田中さんが厖大な借金をつくっていた。そんな逆風の中で、岩本さんは何とか人心をつなぎとめようと、第一原発への通用道路を整備したりもした。東電はそれに30億円寄付で、町の赤字がまた脹らんだ。これが第一原発発七、八号機増設の容認の動きにつながるのです。
七、八号機の増設問題を問われて、「もし町民がそれを望むならば、増設運動を繰り広げてきたい」と言ったため、マスコミは反対派から推進派へ“転向”と書き立てた。当時、東北電力が計画中だった浪江・小高の原発建設予定地の一坪地主もやめた。
「一坪地主をやめたと聞いたときは、本当かと思いましたよ。くやしくてならなかった。以来、まったく口をきいたことがありません。
「1979年スリーマイル島の事故がありました。その直後に県議選があり、反原発の神風が吹いて絶対当選確実といわれていたのに、落選してしまった。そのへんから、潜在的には原発反対では政治家としての限界、上がり目がないと思っていたんじゃないかな」
岩本本人を訪ねたときは、腎不全で一日おきに人工透析を受けている病院から帰宅し、ベットでいる状態だった。
避難する車の中で『とんでもない事故だ。東電が昔言っていたことと全然違うじゃないか』と、怒っていたんです。
『東電も国もずっと原発は安全だと言い続けてきた。それを私も信じて町政をやってきた。
福島第一原発の反対派から推進派に“転向”し、取り返しのつかない原発事故に遭遇したあげく、病の身を養う安住の地を求めて福島各地をさすらう。この元町長の胸にはいまどんな思いが去来しているだろうか。
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