奈良時代、最大のイベントであった遣唐使について述べましょう。はじめての遣唐使は、舒明天皇2(630)年に犬上御田鍬が派遣されたのが最初でした。以後、最後の承和5(838)年に出立した使節団を最後として、およそ二百年間にわたって16回ほど遣わされました。遣唐使廃止が、正式に決まったのは、平安時代の894年の菅原道真の建議によるものでした。
第1回の遣唐使の派遣は630年、大使は犬上御田鍬。ちなみにこの大使は、614年の遣隋使の大使でもありました。ただ、実態としては従来の遣隋使の続きと考えていたように思われます。
その後、第2回の遣唐使では、往路に第2船が薩摩近海で遭難して120人中、生存者5人という悲劇に見舞われています。これが、後に増えてくる遣唐使の遭難の最初の例です。
このあと、654、659、665、667、669年に遣唐使は送られていますが、この時期の遣唐使に関して大きなトピックは存在しないので詳述はしないことにする。この河内鯨を大使とする669年の遣唐使を最後に、702年まで遣唐使の派遣は途絶えることになります。
この辺りまでの遣唐使を前期、以後を後期として区別する見解があります。この間の大きなトピックとして、663年の白村江の戦いが挙げられます。ここまで日本は、親百済政策を採っていましたが、この数年前に百済は滅亡、さらに668年には高句麗も滅亡してしまいます。ここまでの日本は懸命に中国に対して対等外交を行おうとしていていましたが、この白村江の戦いで唐の力を見せつけられてしまい、この後はどうやら対等外交を放棄したように見受けられます。
669年に派遣された遣唐使は、翌年、唐の高宗と謁見して「高麗を平ぐるを賀した」とされていますが、これは実質的には日本の降伏表明だったと考えられます。
ここまでは政治的な色合いが強かった遣唐使でしたが、以後はどちらかと言えば唐の先進文化を受容していくのが主な目的となっているように見えます。また、この頃まで主として2隻で構成されていた遣唐使船は、8世紀に入って復活した後は、倍の4隻で構成されるのが通常となっていきました。また、新羅との関係悪化により、遣唐使の渡海ルートも北路から南島路・南路へと変化を遂げています。
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