2010年12月8日水曜日

平成遷都1300年物語(3)

 わびしい下級役人の日常生活
 下級役人は、どういう生活だったのでしょうか。役人たちは毎朝、自宅から大内裏(平城宮)に出勤すします。出勤時間は六時半です。
都の外れに住んでいる下級役人は、通勤に1時間以上かかってしまうので、まだ日の出前に自宅を出ることも珍しくはありませんでした。
 日の出前になると、太鼓が鳴り響き、大内裏への入口である朱雀門が開きます。すると、1万人近くがドッと入り込んで来ます。まさに今のサラリーマンの出社風景です。

 6時半、再び太鼓が鳴り、朝堂院の門が開きます。2回目の太鼓までに出勤しないと遅刻となり、遅刻者は朝堂院に入れてもらえませんでした。
 きちんと出勤したかどうかは、毎日これをチェックする専門の係りがいて、その名前を木簡に記して報告がなされました。退勤時間は以外と早く、正午でした。

 正一位から正三位までの高貴な貴族(公卿)には、位田と呼ばれる水田と位封が与えられました。位封とは、農民が納める庸や調という税と租の半分を支給されることです。
正一位の者には位田八十町、位封は三百戸、従三位には位田四十三町、位封百町となっており、給与に三倍近い格差がありました。
公卿には、季禄という給与が春と秋に支給されました。これは、絁、綿、布、鍬という品物が支給された。特典として、資人と呼ぶ警備や雑役のための使用人が付与されました。正一位は百人、従三位は六十人が与えられていたということです。

 四位と五位には位封は支給されなくなり、かわりに位禄という絁、綿、布、鍬が与えられましたが、従五位の位田は八町で、正一位の十分の一に過ぎなくなる。
 六位より下の役員は、位田も位封も位禄も支給されず、春秋も季禄のみでした。出勤日数に応じて米や塩、魚などの月料が配布されました。これが、いわば、月給と言えるのでしょうか。
官職(役職)に対する給与ですが、最高職の太政大臣には、四十町の職田と三千戸の職封と使用人三百人が職分資人として支給されました。官職による給与は、中納言以上の閣僚クラスに限られていました。
 正一位太政大臣に就任すると、位階と官職の収入は、いまの金額にしておよそ6億円になったと思われます。

 正六位だと、年収は約七百万円程度。さらにもっと位が低くなると、食べていくのがやっとという状況で、たとえば最低ランクの少初位は二百万程度だったようです。だから地方出身者は、多くが実家から仕送りしてもらっていました。

0 件のコメント: