今年は、韓国統監府の初代統監だった伊藤博文がハルピン駅で韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡したのが、1909年10月26日でした。今年は、没後100年になります。伊藤について意外と知られていないのは、彼が国際協調重視派であったことです。大陸への膨張を狙って韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅らの陸軍軍閥と、しばしば対立しました。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた伊藤でしたが、統監であったことから韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がりました。当時、ハルピンはロシアの支配下にありました。もちろん、現在は中国領です。したがって、田母神理論もまったくの的外れではないかも分かりません。安重根はロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑にしました。
さらに意外な面では、明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設しました。また、日本女子大学の創設者でもあります。かれの芸者好きは有名です。女性が好きだったのでしょう。いわゆる二号さんも何人かいたようです。
最近の北朝鮮の国家安全保衛部のスポークスマンの発表によると、「李」という人物が、北朝鮮から不法に出国し、韓国情報機関員の「黄」から訓練を受けて後、北朝鮮に戻り、金総書記の暗殺を企んでいたということです。これは、北からの南への揺さぶりでしょうが、暗殺という手段では何も解決されません。
ところで、伊藤博文100年忌はどういう行事があるのでしょう。100年たって、どのように評価されるのでしょう。非常に興味があります。
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