今日は、産経新聞の論説委員の福島俊雄氏の「奇を衒いすぎた菅首相」を転用します。
菅首相が奇兵隊という武張ったコピーを思いついたのは、「敵」を官僚と位置づけているからでしょうか。たしかに一筋縄ではいかない霞ヶ関の官僚に対しては、高杉晋作ばりの奇を衒った作戦を展開しなければ統治はできません。
そこで登場したのが、「三権分立」否定という、これまた奇を衒った菅氏の理論です。憲法によって、国会(立法府)は、「国権の最高機関」と位置づけられています。その国会から、行政府の「長」である内閣総理大臣が選ばれます。総理大臣は、自ら国務大臣を選び、内閣を構築します。行政権を行使するのは、この内閣です。その行使に際しては、国会には監督権があります。ここまでは、問題ありません。
ところが、菅首相は、議員内閣制というコトバは正しくは「国会内閣制」のことであり、『三権分立』は行政、立法、司法が『機能』として分立しているのであり、それがそのまま『権限』としても分立し、それは、それぞれ自己完結型の独立した権限機関であると考えるのは間違いである(菅氏著作の『大臣』より)と結論づけています。
福島氏は、「司法権はいざ知らず、これでは立法府と行政府(内閣)がほぼ一体化し、『二権分立』になってしまう。ジョン・ロックからモンテスキューにいたる古典的な『三権分立』論は完全とはいわないまでも、半否定される。選挙によって、政権党となった政党は、立法権と行政権を掌握し、極端に言えば、ナンデモできることになる。どこかの学者センセイの受け売りらしいが、菅首相は行政権や立法権などの「権」を「権限」と解しているようだが、ちがう。「権力」である。「権力」は強制力を持ち、暴力を行使することができる。その利用を防ぐために、「三権」は分立させなければならいない」と菅氏を糾弾しています。
さらに「初代内閣総理大臣の伊藤博文の考え方を紹介したい。伊藤は政党を内閣に人材を供給するプールと位置づけ、政権党が必然的に単独で内閣を構成すべきではない、とした。なぜなら、『内閣というのは、政権闘争の勝者によって占奪される場ではなく、国家的見地で公平な施政が思案されるべき知恵の府』だからだと述べています。
福島氏は、「立法権と行政権をハッキリと分立させた伊藤の考え方が理にかなっている。民主党は衆院では勝者となったが、参院では敗者になった。菅首相の論でいけば、政府『権限』は半分に縮減されたことになる。立法府は「ねじれ」があってもいい。それが民意だからだ。だが、立法府が『ねじれ』たからといって、行政府までが『ねじれ』ていいわけではない」と論破しています。
さらに福島氏は、長州の木戸孝允が佐賀藩主の鍋島閑叟に攘夷のために大砲を貸してほしいと頼んだ際に閑叟は側近にこう漏らしたそうです、「長州人はどうも利口で油断がならないなあ。ずいぶん景気のいいことをいって世間をにぎわすが、口ほどに行動しないから、手を結べばひどい目にあう」と書いています。菅氏は長州の出身です。福島氏は「菅首相というよりも、民主党全体に対する、実に当を得たセリフのように思える」と書いています。菅氏の欠点は、この実行力がないところです。国政では、カイワレ大根を食べるなどのパフォーマンスは通用しません。
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