「新潮45」の 2010年.8月号に山村杳樹氏が標題で寄稿していました。副題は、「参院選を仕切った“クリーン幹事長”と極左暴力集団とのただならぬ関係」と実に衝撃的です。
A4サイズの文書で、最上部の標題部分に「『第41回衆議院議員選挙』立候補予定者の推薦にする覚書」と書かれています。
書面から判断すると、衆院選の立候補者と組合との間で交わされた文章であると推察できます。この「覚書」が交わされた日時は、1996年8月24日。第41回の衆議員選挙が行われたのは、1996年10月20日ですから、まさに選挙直前に取り交わされた“契約書”と言えます。署名欄には、労働組合支部の執行委員長と立候補者の名前が、それぞれ直筆の署名で並んでいます。
執行委員長は、ある罪を犯し、刑事訴追された人物です。立候補予定者の署名には、枝野幸男と書かれています。
枝野氏は、東北大学法学部を卒業後、1988年に司法試験に合格。1991年に弁護士の登録をし、法律事務所の「イソベン」として働きはじめました。1992年の11月、日本経済新聞に、細川護熙氏が結成した「日本新党」が衆議員選挙の候補者を公募しました。1993年、約150名の応募者の中から最終的に2人の候補者が選ばれまし。その中の一人が28歳の枝野氏でした。そして、この年の7月に行われた衆議員選挙で初当選を果たしました。
その後、「新党さきがけ」に移り、当時の菅直人厚生大臣の右腕として、薬害エイズ問題に取り組んだようです。
第41回衆議院議員選挙は、小選挙区制が導入された初めての選挙でもありました。1回目のようなブームに乗ったボランティア選挙では勝てないと判断し、組織を持つ労働組合の推薦を得て、一票でも多くの票を得たいと考えていた時期でもありました。この選挙では、枝野氏は苦戦し、辛うじて比例で復活当選を果たしています。
枝野氏が「推薦」を求めた相手、すなわち「覚書」のもう一方の当事者である労働組合は、「JR東労組東京地本本部とJR東労組大宮支部」でした。枝野氏と並んで署名捺印していたのはJR東労組大宮支部執行委員長のAなる人物でした。Aは、単なる地方労組の幹部ではありませんでした。2002年11月2日にその事実が明らかになりました。朝日新聞東京版では、「JR東労組幹部ら逮捕 同僚を脅かして退職強制容疑」という見出しでした。あと、A容疑者が「JR東労組内の『マングローブ』と呼ばれる革マル派組織の幹部で、事件の中心人物とみている」とあります。報道では、Aの部分は、実名が入っています。
2000年末から翌年夏にかけて、JR東労組に所属していた男性運転士(28)を、他の組合の人間とキャンプにでかけて交遊したことなどを理由に、Aら7人の同労組の役員などが、罵詈雑言の限りを尽くし、繰り返し恫喝、脅迫し、組合を辞めさせた上に、会社のJR東日本を退職にまで追いやりました。
2007年7月、一審で東京地裁は、1が月以上の間に8回にわたって罵声を浴びせるなどして組合脱退を強要した。計画的、組織的、執拗な犯行である」と断定し、Aを含む7名に有罪判決を下しています。Aを含むJR東労組の組合幹部たちは、自分たちの組織方針に従わないというだけで、一介の労組者を、組織を挙げた陰湿、冷酷ないじめで組合脱退に追い込んだというわけです。 (明日に続きます)
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