
丸木を板にするのは、当時は、鋸がありませんから、槍鉋で削っていかねばなりませんから、平たい板を作るのは、大変です。槍鉋は、玉手遺跡にもありました。今、使われている鉋は、台鉋といって、室町時代から使われ始めたものです。
この秋津地域は、葛城氏の勢力範囲と思われ、葛城山の頂上にいた神様を塀の中に呼んで、秘儀を執り行ったのではといわれています。葛城襲津彦の娘・磐之媛は仁徳天皇の皇后で履中、反正、允恭の3代の天皇の母です。

この大和盆地の南部には、4世紀前半に、東の巻向、西の葛城といった二大勢力が拮抗していたものと思われます。大和盆地の東の巻向を勢力範囲とする勢力は、三輪山をご神体とし、西を勢力範囲とする勢力は、葛城山をご神体としていました。そして、この葛城勢力は、帰化勢力をバックにした蘇我氏に吸収されていきます。大和朝廷草創期の話です。
1 件のコメント:
11月28日秋津遺跡の現地説明会に行ってきました。
発掘担当の橿考研もこの遺跡についてまったく理解していない。
私なりに推測するこの遺跡の性格があります。
よろしかったらアクセスしてみてください。
邪馬台国出現のキーワードでヒットすると思います。
http://yamatai.sblo.jp/?1291376616
コメントを投稿