それによると、古くは第1次大戦の青島攻略戦の折、膠州湾を遊弋するドイツの軍艦に世界で初めて空爆を仕掛けました。
尤も操縦席から擲弾をぽいと投げるという素朴な爆撃だったそうですが。
この実績があったために、マレー沖で英戦艦プリンス・オブ・ウェ-ルズを沈められたと書いています。同艦は世界で初めて航空機攻撃によって沈められた装甲戦艦として戦史にその名をとどめています。日本は米国にも不名誉な記録をつくってやっています。
プリンス・オブ・ウェルズが不沈艦を名乗ったように米の4発爆撃機B17は、高い運動性能とハリネズミのように装備した対空機関銃で、絶対に落とされない爆撃機を豪語していました。
事実、後の欧州戦線では迎撃するドイツ機をかなり撃墜しています。「空飛ぶ要塞」の名は決して伊達じゃなかったというわけです。プリンス・オブ・ウェルズが沈められた翌日、そのB17がフィリピン上空でゼロ戦と遭遇しました。
彼らは日本にはまともな戦闘機は作れないし、乗員も「おんぶで育てられ、頭を揺すられた結果、三半規管に異常をきたし、さらに近眼で鳥目だからまともな急降下もできない」と信じ込んでいました。
ところが彼らが気づいたときには、機体は炎に包まれ、B17が初めて戦闘機の餌食になったことを知りました。米国はショックを受けましたが、半分はまぐれと思っていました。
ところがその半年後、ニューギニア・ブナ上空で5機編隊のB17と9機のゼロ戦がぶつかりました。
坂井三郎も加わったゼロ戦隊は敵機の真正面に突っ込んで行って20㍉弾を叩きこみました。弾の速度に機速も加わって凄じい破壊力が生まれ、5機のB17は全機撃墜され、B17神話が砕け散った瞬間でした。
ノモンハンでは日本軍は、ソ連機1673機を撃墜しました。短期間での航空戦での撃墜数として世界記録になっているといいます。また、日本は最長飛行記録も持っていました。
最初は、昭和13年の東大の航研機が1万1600㌔の世界記録を出しました。
そして、イタリア機が翌年1000㌔ほど記録を更新すると日本は昭和19年、木村秀政設計のA26が満州ハルビン-新京―白城子の周回コースで1万6435㌔の記録を打ち立てました。
これは東京からニューヨーク経由ロンドンまでの距離に相当するといいます。
戦時中だったため未公認ですが、ギネス航空記録には登録されています。
航研機は羽田に保存されていましたが、戦後、米軍がブルドーザーで壊し、あの辺の海に投棄しました。A26も太平洋に遺棄されました。
日本の航空機技術には、芯から恐れと妬みがあったのでしょう。
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