2011年1月31日月曜日

班田収授法の実際(4)

 班田収受法もうまくは、続きませんでした。奈良時代は、天候も悪く、ときの天皇は、自分に徳がないためと雨乞いしたり、神仏に祈ったりしましたが、いっこうに改善しませんでした。日本の天皇は、古くから超能力を有していると民からは思われていました。しかし、超能力を持っているわけではなく、雨が不足しているところには、日照りが続き、雨が多いところは、洪水が起こりました。 

 このために、本籍地からの逃亡が相次ぎ、税制度の維持が困難になりつつありました。朝廷は、公地公民制の原則を崩し、墾田永年私財法を出し、開発した土地の私有を認めて耕地の拡大をはかり、増収をねらいました。同法によって開墾された土地を荘園と呼びます。

 そうした苦しい状況であったにもかかわらず、聖武天皇は仏教興隆事業に金をつかいました。神に縋る以外になかったのです。しかし、大仏の建立は、一向に進みませんでした。このために聖武天皇は、とうとう行基の力を借りることにしました。行基は、庶民に仏教を広げ、信者たちとともに道路や橋、灌漑施設を作っていました。

 当初、朝廷は行基集団を弾圧しました。戒壇を受けていない僧は、僧とは認めていなかったのです。だが、聖武はむしろこの力を利用しようと、行基に協力を求めたのです。行基は、これを受け、ついに天平勝宝4(752)年、大仏開眼供養にこぎつけることができました。

 その頃には、奈良時代の律令制度は、根幹から崩れそうになっていました。

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