そして、奈良時代のはじめに政治権力を握っていたのは、大化の改新で活躍した中臣鎌足の息子の不比等でした。平城京への遷都も彼の主導のもとに断行されました。この遷都は、藤原氏のために行われた感があります。
不比等は藤原氏の繁栄のため、自分の娘の宮子を文武天皇の夫人とし、宮子の妹・光明子を、文武と宮子の間に生まれた首皇子(聖武天皇)の妻としています。しかしながら不比等は、首皇子が既位するのをみることなく、養老4(720)年に死去しました。
これにかわって藤原氏と関係の深い皇族が台頭しました。それが、長屋王です。長屋王は天智天皇と天武天皇の孫にあたる毛並みの良さです。父は、壬申の乱で大活躍し、大海人皇子に勝利をもたらした高市皇子です。そして、長屋王は右大臣となって政権を担当しました。儒教的な教えで政府を導きましたが、堅苦しく、既位した聖武天皇との間には、すきま風が吹いていました。聖武天皇は、体も丈夫でありませんでした。父の文武天皇も早くに亡くなりました。そして、聖武天皇は、1歳にも満たない子を皇太子としましたが、この子が1歳を待たずに亡くなりました。。
そういう中で、不比等の四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)も政治力を持ち始めていました。そして、長屋王政権を揺がす大事件が起こりました。
神亀6(729)年、「長屋王が謀反を企んでいる。亡くなった皇太子も長屋王の呪詛によるものだ」と密訴する者が出ました。
この訴えを受けて、藤原四兄弟が兵で王の邸宅を包囲しました。もはやこれまでと悟った長屋王は、無念の涙を飲んで妻子とともに自害して果てました。これらは、藤原四兄弟によって仕組まれたものでした。
現代の発掘によって長屋王の邸宅あとからは、膨大な木簡が発見されましたが、この木簡からは、当時の貴族の豪勢な生活がみてとれます。夏に冬に凍らせていた氷室から氷を切り出して、今でいうカクテルのようなものを飲んだり、あわびその他の海の幸もふんだんに食していたようです。
いずれにしろ、藤原四兄弟は、光明子を念願の皇后(光明皇后)に据え、政治権力を掌握しました。光明子は、父の不比等に似て、かわいらしさのない強い女性だったようです。聖武天皇は、夜、光明子の部屋には行かなかったようです。精神的に脆い聖武天皇は、優しい女性を好んだのでしょう。
権勢をわがものにした藤原氏も、それから十年も経たない天平9(737)年、四兄弟はみな天然痘に罹患し、全員があっけなく死んでしまいました。運命とは、皮肉なものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿