万葉時代の和歌のスターは、大伴旅人、その子の家持、柿本人麻呂、そして山上憶良でしょう。ここでは、大伴旅人と山上憶良について書きましょう。
当時、貴族の生活は都にあったばかりではありません。この時代の貴族は、一生の間に何度か国司として地方に赴任しなければなりませんでした。期間は、制度上は、6年、4年、5年と時々によって変わりましたが、平均すると2、3年だったようです。国司に律令が課した責務を率先して実行してゆく模範的な貴族がいた一方で、任地でも都と同じように優雅な生活を過ごす貴族もいました。とくに太宰帥のばあいは、次官の大弐以下多数の官人をしたがえていましたので、政務に追われるということはなく、比較的優雅な生活をしたようです。
大伴旅人が大宰府の長として赴任したのは720年代の後半(神亀4、5年ころ)であったらしい。発令後、近国なら20日、遠国なら40日の装束仮という休暇がでて、出発の準備をしました。出発にあたっては、友人知己がかならず宴会を開いてくれました。後年、旅人の子家持が越中の国守に赴任したときは、妻の坂上大嬢と二人の子を都にのこし、妻の母である坂上郎女は枕辺に斎瓮を据えて無事を祈り、弟の書持は木津川のほとりまで馬で送りました。
しかし、旅人は老妻と、晩年の子でまだ幼い家持たちを連れて大宰府に出発しました。途中の名所旧跡をゆっくりと眺めながら旅をし、任地に着くと、大宰府の館で宴会をひらきました。宴会はなにかにつけて開かれました。席上、当時の風習として、歌の応答があります。その場で自作を楽器で伴奏しながら歌うのです。できないひとは、おぼえている古歌を唱いました。唯一の楽しみは、酒を飲み、和歌をつくることだったかもわかりません。大宰府歌壇ができたことでしょう。
しかし、老いた旅人は、都を思うと憂欝だったようです。大伴家は武門であっために隼人の討伐に行かされたり、今回は60歳に近いにもかかわらず、遠く大宰府に赴任することとなりました。
わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京は見ずかなりなむ。
酒の歌も作っています。
験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る 酒を飲めない人には、痛烈です。
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