それでは、遣唐使がどのような構成でどのような手当てをもらって出かけたのか。手当ては、出発前に支給されました。この世の最期と思い、渡航する前に使ってしまった人もいるでしょうし、唐に渡ってから経やさまざまな書籍、絵画を買うために持っていった人もいるでしょう。ここで面白いのは、船長の手当てと神主、医者、画家などと手当てが変わらないことです。また、留学生、学問僧にも与えられましたが、その手当ては、船長の倍以上にもなったのです。唐での滞在費、勉強の費用なども入っていたのでしょう。さらに従者にも手当てが渡されていました。阿部仲麻呂は、羽栗吉麻呂という傔従を連れていっています。宝亀の遣唐使の出てくる准判官羽栗翼とその弟翔とは、吉麻呂が唐の女性と結婚して生んだ子です。
勝宝の副使大伴古麻呂が、日本の対面のためにがんばったことは、先に書きました。再度書きますと、勝宝の遣唐使一行は年内に長安につき、元旦の朝賀をはじめ、7日の大明宮含元殿における諸蕃の朝賀にも出席しました。玄宗が臨御し、百官が居並ぶなかに唐と交渉のあるすべての国々の使人が参列します。その席次の問題でした。会場係の将軍呉懐宝が用意した席次は、東畔(東側)の第一席に新羅、第二席に大食、西畔の第一席に吐蕃、第二席に日本という順でした。席次をみるや大伴古麻呂は呉将軍に抗議しました。
「昔から新羅は日本に朝貢している国である。しかるに日本より上席にすえるとは、道義にそむくではないか」。
呉将軍は古麻呂の顔色が変わっているのをみて、新羅の使人に因果をふくめて、席を交代してもらうことにしました。
これは、無事帰国してからの古麻呂自身の報告ですので、多少の尾ひれがついているかも分かりません。ともかく副使の古麻呂は、抗議ができるほどには唐語が話せたのでした。
古麻呂は大学寮に勤めていたころ、天平の遣唐使に加わったのですが、このことは、あまり知られていませんが、石山寺所蔵の遺教経の末尾には、陳延昌という唐人が、「この大乗の経典は、大学寮の朋古満が、開元22(734)年2月8日、京を発つ日に記した」と書いてあります。朋古満は、大伴古麻呂のことで、在唐中に唐人と親しくしており、仏教にも深く関心を寄せていたのでした。
後年、勝宝の遣唐使に副使として、ふたたび入唐した帰途、大使清河以下の使人たちが唐の官憲に遠慮して鑑真一行の便乗を拒否しましたが、かれ一人は、ひそかに鑑真一行を自分の船に乗せて、ついに日本へ招いたという事件は著名です。これは、かれの仏教に対する帰依の心から出たものと思われます。
遣唐使は、アジア諸国からの使人が唐都に一堂に会する正月に間に合うよう、その前年の夏に出航していました。
留学生は、一行とともに日本に戻らず、唐へのこると、帰国には自ら旅費を調達せねばなりませんでした。僧ならば途中で布施を受けながら、渤海から新羅と、遠い路を迂回しないかぎり、次回の遣唐使を待たねばなりませんでした。
留学生・学問僧の在唐年数
留学生は、諸外国からの留学生と同様に、唐朝の方針で衣食を支給されていましたが、学問僧は勉学の便宜を受けるだけで、9世紀までは配属されていた寺で面倒をみてもらうか、布施を受けていたようです。
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