和同開珎が直径は2.4センチばかり、重さが3.75グラムの銅銭が出回っていましたが、同じ和同開珎でも、銀銭だと重さは2倍をこえる重さでした。
銀・銅の2種の銭貨が発行されはじめたのは708八年(和銅元年)でした。銀銭は翌年発行を中止しましたが、銅銭の方は760(天平宝字四)年の万年通宝に交代するまで大量に鋳造されました。奈良時代にはもうひとつ、765(天平神護元)年に神功開宝が発行されていますが、万年通宝も神功開宝も、和同開珎と通用期間や鋳造量をくらべると問題になりません。和同開珎は、今もなお、日本各地はもとより、遠くは8世紀の強国の渤海の東京城からも発見されています。
「和同開珎」を開珍とも読まれますが、開寶(宝)とよむ説もあります。私たちが学んだころは、“かいほう”と読んでいたように思います。「和同」のほうも、中国の古典にみえる吉祥句(縁起のよいことば)を選ばれました。
708(和銅元)年2月から、まず催鋳銭司を置き、5月には銀銭を発行、7月には近江国に命じて銅銭を鋳造させ、8月から銅銭を発行、翌年正月に偽造者は官有賎民にするとの詔をだし、3月には、銅銭四文を銀銭一文に相当させていたのに銀銭はオリンピック銀貨のようにみな使いたがらなかったため、四文以上の買物に銀銭を使えと命じ、8月にはついに銀銭を廃止してもっぱら銅銭にします。
各地の鋳銭司から送られてきた新銭を、発行するのはどういう方法によっていたのでしょうか。和同開珎発行当初の方法は、実はよくわからないのです。
711(和銅4)年は、朝廷が和同開珎を交換手段にするために乗り出した年です。発行後、当初はほとんど通用しませんでした。国の威信をかけて、通用させようとしたのです。5月に穀六升(米にすると現量約一升二合)を銭一文と定めたのは、もっとも有力だった交換手段である米にたいする挑戦でしたが、同10月には官人にたいする季禄の大半を銭で支給しました。しかし、官人にしても現物給与ならば、いちおうそのまま着たり食べたりすることができますが、銭貨は現物に交換しなければ役に立ちません。朝廷でも、銭貨などは見たこともないという国民が大半であるという実情は知っていましたから、同時にいわゆる蓄銭叙位法を制定しました。
六位以下の下級官人ならば、銭十貫すなわち1万文(1枚が一文)で位一階、初位以下一般庶民は5貫で一階、ただし、五位以上に位階が上がるようならば、別に考慮する、といっています。五位以上になると、給与が格段に増加するので、蓄銭者としては一時に大量の銭を献納しておけば、将来は有利になるためです。
こうして銭貨の放出と還流の大きな流れをつくり、翌11月には,すでに蓄銭していた人たちに、実際に位階を授けました。
712年の冬には、当時宮城や都城を造営するために雇役していた役夫にたいする賃銀も、銭で支払うことにしたようですし、諸国から都へ送ってくる調庸も、布一常(当時の一常72センチ幅のを四メートル弱)につき銭5文のわりで、銭で送るように命じました。銭の放出と還流の流れは、いよいよ拡大されてゆきました。
712(和銅5)年に命じたいわゆる銭調が、諸国からはじめて都へ送られてきたのは、722(養老6)年でした。そのとき送ってきた国は、伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊など、畿内周辺の8カ国です。この範囲は、今日、和同開珎などを多く出土する地域と一致しています。
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