貴族・役人・農民・商人・盗人・僧尼、富める者、貧しき者など、三世代近くにわたって何十万という人々の生活が育まれた平城京も784(延暦3)年の冬、桓武天皇が山城の長岡に遷都すると、その日からにわかに荒れはじめた。平城京からの遷都も古来、いろいろの説があります。僧が力を持ちすぎた、呪いなど超常現象に頼る人が多く忌まわしい土地となった、桓武天皇の支援母体が京都にある、大仏を金メッキするときに多くの水銀が使われ、今でいう公害が発生し、健康な生活を営むことができなくなった、などの多くの説があります。都は飛鳥から、藤原京、平城京と北に移って来ました。この遷都には、藤原氏に莫大な利益をもたらしました。桓武天皇は、藤原氏ともある程度の距離がおきたかったと思います。
つぎの平城天皇は退位後、寵姫藤原薬子と平城宮の故地に宮を営みましたが、復位の運動が失敗すると(810年)、平城京の荒廃の速度は以前に増して、速くなりました。このいわゆる薬子の乱から54年の後、大和の国司は「都城・道路、変じて田畝となる」と報告しています。それは、平城の左右両京のことで、外京は平安遷都に随行することを許されなかった東大寺や興福寺、春日大社など大寺、大社に寄生して暮らしてゆく人々によって、門前町に変貌してゆきました。これが、今日まで続いています。
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