2011年1月6日木曜日

平城遷都1300年物語(12)

遣唐使(8)~阿倍仲麻呂(5)
 第12次遣唐使が組織されたのは、宝亀6(775)年のことでした。再び清河を迎える目的で、遣唐使が組織されました。翌年6月、遣唐使は唐へ向いました。
 だが、石根が唐に着いたとき、すでに清河死んでいました。
 じつは、渤海の使節に手紙を托してまもなく死去してしまったのです。年齢は73歳だとも50代後半だとも言われています。
 なお帰路ですが、第二船と第三船は無事に日本に到着しましたが、第四船は済州島に漂着して現地人に襲撃され、荷は略奪され、半数の乗組員が殺されたり拉致されました。
 第一船はさらに悲惨で、荒波によって船が海上で真っ二つに割れてしまい、副使の小野石根ら38人と唐人25人が水死しました。
 残った人々は、船の残骸につかまり、奇跡的に薩摩にたどり着きました。
 この中に喜娘という女性がいました。なんとそれは、清河の娘だったのです。清河は唐で所帯を持っていたのです。ただ、その後、喜娘がどのような人生を送ったかは、記禄に一切残っていません。
 仲麻呂はその後、鎮南都護、安南節度使と唐の重職をつとめましたが、第12次遣唐使を待つことなく、清河に先立つこと三年、770年に死去してしまっていたのです。

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