2011年1月10日月曜日

平城遷都1300年物語(16)

 この政治的空白期に登場したのが、皇族の橘諸兄でした。諸兄は美奴王と橘美千代との間に出来た子でした。美千代は、美奴王と離婚し、不比等の妻となりました。当時でもこのような大胆な離婚劇は珍しいものでした。不比等の強引さが目に余ります。

諸兄は光明皇后異父兄妹にあたりますが、彼は、大唐から帰国した吉備真備や玄昉といった知識人をブレーンに登用して政治を進めました。

そうこうしていると、ブレーンとして政治を左右するようになった二人を憎んで、藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。広嗣は、藤原四兄弟のうち、式家を興した宇合の嫡男でした。宇合は遣唐使の副使として唐に渡ったり、蝦夷の征伐でも大きな貢献をしました。この広嗣は、橘政権と対立して、太宰少弐として九州の大宰府へ飛ばされてしまい。中央政界から離されていました。

これを怨んだ広嗣は、天平12(740)8月、朝廷に上表文を差し出し、玄昉と吉備真備の非道を説き、政権から排除するよう要求しました。そして、その返事を待たずに挙兵しました。ただちに征討軍を構成し派遣しました。征討軍は福岡の板櫃川で広嗣と対峙しました。しかし、凡庸な広嗣は戦をすることもなく、その場から逃れ、船で唐を目指しました。済州島まで近づきながら、烈風に吹き戻されて、五島列島で捕縛され、斬首に処されました。

広嗣の乱には、聖武天皇もこたえたようです。この乱の最中、聖武天皇は突然東国に行幸すると言い出し、その後5年間ちかく、各地に都をつくっては転々として過ごし、平城京に戻りませんでした。

この数年間の彷徨の時代、聖武天皇は各地に七重塔をもつ壮麗な国分寺と国分尼寺、さらには紫香楽宮に大仏を造りはじめています。

さらに悪いことには、聖武天皇の治世は、自然災害や伝染病が頻発しました。そして、このたびの反乱です。「こうした現象が起こるのは、統治者に人徳がないからだ」という考え方が、唐から日本に伝わっていました。聖武天皇はこれを信じ、人徳のない自分を鑑みて、仏教の力にすがろうと仏教の興隆事業を大々的に展開したのです。当時は、仏教は国を平安にするという「鎮護国家」の思想が存在していました。

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