2011年1月3日月曜日

平城遷都1300年物語(9)

遣唐使(5)~阿倍仲麻呂(2)
 第8遣唐使が迎えにきたとき、すでに彼は唐の女性と結婚して子供もいました。相当に早い国際結婚です。このため、弁正は帰国を固辞し、かわりに中国で生まれた息子の朝元を日本へ遣しました。この少年も親に似て有能だったようで、朝廷から秦忌寸という氏名を与えられ、次の遣唐使のさい、外交官として入唐することになります。
 阿倍仲麻呂は最高学府で学問を学び、やがて科挙に挑戦しました。科挙は、唐の官史登用試験のことです。その倍率は3000倍ともいわれる、驚くべき難関試験でした。科挙のなかでも、進士科の試験は最難関でした。科挙の平均合格年齢は30代後半、進士科になると、50歳で合格しても若いほうといわれました。
 そんな進士科の試験に、仲麻呂はなんと、20代後半で見事に合格したのです。まさに天才的頭脳の持ち主だったといえます。
 仲麻呂は、官位も正九品から従五品にまで昇進。ちょうどそんな734年4月、玄宗皇帝が滞在していた洛陽に十年ぶりに遣唐使が姿をみせました。
 この遣唐使の中には、先の弁正の息子秦忌寸朝元が含まれていました。
 玄宗皇帝は、遊び仲間だった弁正の子が外国の高官に出世して戻ってきたので、これを大変喜び、朝元を優遇するとともに、遣唐使たちもこれまで以上に厚遇しました。莫大な文物を与え、中国人の学者や僧侶、インド人の僧侶など、すぐれた人材を日本へ伴うことを許可しました。
 このとき玄昉や吉備真備ら留学生たちも帰国を果たしています。
 当然、仲麻呂も玄宗皇帝に帰国の希望を申し出ました。
 しかしながら玄宗皇帝は、最後まで首を縦に振りませんでした。この34歳の逸材を失うのは、あまりに惜しいと考えたのでしょう。このとき仲麻呂の従者であった羽栗吉麻呂は、翼と翔という二人の息子とともに日本に帰国しています。仲麻呂は、ますます寂寥感にさいなまれたことでしょう。
 仲麻呂は、漢詩の分野でも卓超した才能を示し、王維や李白といった当代きっての詩人たちとも親しい間柄にありました。
 そして、待ちに待った帰国のチャンスが、それから十数年後に再びやって来ました。
天平勝宝2(750)年、第10次遣唐使が編制されたのです。
 このとき接待係になったのが、朝衡という高官でした。じつは朝衡とは、かつての阿倍仲麻呂でした。名を中国風に変え、玄宗皇帝の側近となっていたのです。

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