しかし、元正女帝の養老4(720)年春、隼人は再び反乱を起こし、薩摩の東隣の大隅の国守を殺しました。その報が平城京に届くと、朝廷はただちに中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍に任じ、副将軍二人をつけて派遣しました。
その秋、あたかも相呼応するかのように、陸奥でも蝦夷が反乱して按察使が殺されました。時節征夷将軍の率いる大軍が太平洋岸にそって北上し、時節鎮狄将軍の軍も日本海側から、蝦夷地へ進撃しました。東夷・北狄ということばもあるが、この場合も同じ蝦夷を東北地方東部のそれは夷、西部のそれは狄と区別したのです。
征夷将軍は、遣唐使の大任を果たして2年前に帰国した多治比県守でした。征討は順調で、斬首・捕虜合わせて1400余人と報告しています。その後しばらくは、東北・西南の地には、なにごとも起こっていません。
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