730(天平2)年冬、旅人は大納言を兼任して都へ帰ることになりました。おおぜいの大宰府の官人が水城のあたりまで送って来ました。馬をとめて振り返り、はるか太宰府の館を眺め、みなにも挨拶しようとすると、人々のかげに児島という遊行女帰もみえました。彼女は別れの歌を旅人に贈りました。
凡ならばかもかも為むを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかも
ふつうのおかたならば、ああもこうもいたしましょうに、帥の卿では恐れ多くて、お別れの袖さえ振らずにおります、という意味です。旅人も答えました。
大和路の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
吉備の児島のあたりを通るときには、おまえを思い出すだろうな、という洒落です。
遊行女帰は、宴席にはべる女性です。遊び女ともいいました。宴には歌がつきものであるから、いつか児島のような素養がつくのです。
山上憶良もやがて帰京し、まもなく死にました。733(天平5)年までの歌が知られています。病の床にあった憶良は、「沈痾自愛文」という長い文章を作り、苦しくて死にたいほどなのに、子供のことを思うと死ねないという歌なども書いています。
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