轡田隆史氏の『1000冊読む!読書術』の12話目です。
中学、高校時代を思い出すと、漢文で唐詩を習った記憶が、いまも鮮明です。「春暁」の「春眠不覚曉」だとか、「静夜思」の「挙頭望山月/低頭思故郷」だとか、李白の「孤帆遠影碧空尽/唯見長江天際流」なんていう節が、轡田氏の美意識や文章意識のどこかを創ってくれたような気がすると語っています。
日本文学でいうなら、すでに古典である夏目漱石や森鴎外がいい。漢文脈の文章は、重厚で、しかもリズミカルで、日本語の歴史そのものの響きに満ちているからです。
作家の木村美苗さんは、次のように書いています。
人類はあるときから文字を書くようになった。私は、その「書く」という行為が、「話す」という行為と密接につながっているとは思わない。「書く」という行為は、「読む」という行為と、はるかに密接につながっていると思っている。漱石は「読む」ことによって漱石になったと思っている。
読書こそが、「書く」行為に誘ってくれるのです。
つまり、「読書」こそが、「考える力」を培ってくれます。
轡田氏は、「考える力」のすべてが、ぎっしりつまっている古典を紹介しています。すなわち、
福沢諭吉の有名な著作『学問のすゝめ』(樽谷昭彦・現代語訳・解説 三笠書房)と、イギリスのサミュエル・スマイルズの世界的名著『自助論』(竹内均訳・知的生きかた文庫・同社)です。どちらも、現実の社会にどう生きるべきかを、具体的に説いた本です。
「好奇心」が芋づる式にわいてくる思考法
考えがまとまらない時には、白川静氏の三部作、『字統』『字訓』『字通』の出番です。
文字の存在しなかった日本列島では、国語を表記するのに、中国、朝鮮からの輸入品である漢字を用いました。漢字に、列島で用いられていたことば「和語」、つまり「国語」のことばをあてはめて読む(発音する)ことを「和訓」といい、その読みの固定したものを「字訓」といいます
本来は中国語であった漢字を国語化したわけです。「山」を「やま」、「川」を「かわ」、「海」を「うみ」と読むのがそれです。
列島に生きるわたしたちの祖先は、もともと「やま」「かわ」ということばを用いていましたが、それを表記することができませんでした。
そこへ、「山」「川」という漢字が入ってきました。なるほど、これは便利だぞ、というわけで、本来の中国語の発音は無視して、意味は同じというところを採用して、その文字に「やま」と「かわ」という読みをあてはめたわけです。
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