轡田隆史氏の『1000冊読む!読書術』の7話目です。
おしゃべりもそうで、「社交の時代」のおしゃべりには、何がしかの「隠し味」が欲しく、「知ったかぶり」と受け取られないように用心しながら、それなりの「蘊蓄」、つまり「知の貯え」をサラリと口にする。「知の貯え」は「充電」しなければ、涸れてしまう。充電の最も確実で手っとり早い方法こそ、読書なのだと書いています。すべての源は、読書にあるということのようです。
本を読み、まねる~これが最もいい「学び方」
昔の、偉大な人びとの学び方、書物の読み方を、いまのわれわれが書物を通してまねしたら、おかしいでしょうか。ちっともおかしくないはずです。なぜならば、宗教において、たとえば仏教徒にしても、キリスト教徒にしても、イスラム教徒にしても、信じるということは、オシャカさま、イエス・キリスト、マホメットたちをまねして生きようと努めることだといいます。
「まねをする」とは、「合法的に盗む」ことではないか。それが、やがて「まね」が骨肉化して、ほんとうに自分のものになります。
ひろさちや氏の著書に『50歳からの仏教入門』(講談社)があり、「仏陀(ブッダ)」とは、サンスクリット語で「目が覚める」という意味だそうです。人はだれでも毎朝かならず「目が覚める」から、毎朝だれでも「ブッダ」になるというわけです。
ここで、「引用」について、イエス・キリストの、十字架上の最期の叫びを取り上げています。
エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ
(神よ神よ、なんぞわれを見捨てたまいか)
(『新約聖書』マルコ伝福音書)
十字架にかけられて、息を引き取る寸前にアラム語で叫んだこのことばは、ユダヤ教の聖典(キリスト教徒たちが『旧約聖書』と呼んでいるもの)の「詩篇」の一節なのです。つまりイエスは「引用」したのです。原文はもちろんヘブライ語ですが、イエス・キリストはそれを、日常語であるアラム語で暗記したらしいのです。
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