2012年2月11日土曜日

高山正之の「いやな国」(1)

週刊新潮の121日号の高山正之の「変幻自在」を見ていますと、標題のような記事がありました。

孫文について、「孫文は日本に喧嘩を売っては負けて逃げるパターンを繰り返したが、逃げるとき、トーチカに兵士を鎖で縛りつけて日本軍の進撃を死にもの狂いで防がせるのもパターンにしていた。

これは同じ支那人同士だから、彼らの勝手だが、オランダ人はそれを統治するインドネシア人にやった。

以下は先の大戦で昭和171月、セレベス島に上陸した海軍陸戦隊の報告だが、目標のメナドへの道を6基のトーチカが阻んでいた。

制圧して驚いた。中には足枷をつけられた現地人兵士がいた。

オランダの支配は過酷の一語に尽きる。水田を潰してタバコなど輸出作物を作らせ、ために多くの餓死者が出た。監獄につなぐと『食べ物が貰える』と喜んだという記録もある。

そこまで虐げた現地民に銃を持たせて自分たちを守らせる。それだけでも呆れるのに、なおトーチカに鎖でつないで戦わせる。

それを命じたのが陸軍大佐F・ティウオンだった。

彼はメナドの飛行場に落下傘降下した部隊に命乞いして捕虜になっている。

堀内は3か月間ここにとどまり、現地人兵士を故郷に帰し、オランダが課した塩税を廃止し、逆に塩の作り方も教えた。家ごとに救急箱も与えた。彼が離任するとき、村民が総出で見送った話が残る。

戦後、日本人は再びティウオンの名を聞いた。彼は捕虜収容所を出るとセレベスのBC級戦犯を裁く判事を買って出た。

彼は部下を検事役にして日本兵に現地人虐殺などの罪をでっち上げて12人に死刑を宣告した。

堀内はそれを聞き、部下の潔白を晴らすためメナドに戻っていった。

昭和231月、堀内はオランダ人虐待などのほか村民30人に毒を盛って殺害した罪で起訴された。

弁護士の井出諦一郎の調べで、堀内が村人に贈った薬箱を「毒薬配布」に仕立てたことが分った。

しかし井出の申し立てはすべて却下され、オランダ人9人の一方的な証言だけで死刑が求刑された。

証拠は何にもない。いい加減な証言だけでなぜ立派な軍人を死刑にするのかを井出が問うと、ティウオンは「なぜなら堀内が日本人だからだ」と答え、判決を前に井出を職権でメナドから強制退去させた。

同年5月、ティウオンは堀内に死刑判決を下した。

高松宮がこの判決を知って、即位を前にしたオランダ王室のユリアナ王女に堀内の助命を嘆願した。

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