明治維新で重要な役割を果たしたのがこの二人です。西郷は倒幕方で、勝は幕府方で江戸城明け渡しなどで大事な役回りを果たしました。わたしの孫には、勝海舟の幼名の麟太郎を名づけました。 2人が最初に出会ったのは、元治元(1864)年9月、大坂の海舟の宿を西郷が訪ねたときのことです。西郷はすぐに勝の器量に心服し、国許の大久保一蔵(利通)にあてて「ひどくほれ申候」と手紙を書いています。数えで勝は42歳、西郷は37歳でした。西郷は大久保に向かって、勝は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるやら底知れぬ英雄肌合いの人と称揚しています。
江戸城明け渡し交渉で得をしたのは勝だったような気がすると、東大教授の山内昌之氏は産経新聞の「幕末から学ぶ現在」で書いています。以下、山内氏の文章です。
勝はこれを生涯、西郷の徳としたのかもしれません。不遇になった西郷の晩年や死後の遺族に対する勝の好意には、全然無理なところがありません。
とにかく、2人は俗にいう「ウマが合った」のでしょう。
勝は本当に西郷を好きだったようです。西郷が城山で自刃した明治10(1877)年にすぐ追悼集『亡友帖』の作成にとりかかり、翌年に発行しています。まだ西郷を逆賊扱いする気分が強いときのことです。勝は遠慮解釈せずに追悼集を出しましたが、この胆力には驚くほかありません。
明治12年には西郷の記念碑建立を思いたち、勝が管理する徳川家の屋敷のあった木下川(現葛飾区)の浄光寺に留魂碑を建ててしまいました。
この碑の表面は西郷が沖永良部島に流罪になったときの詩で、勝が裏面に彫らせた文章のなかに西郷を思う有名な個所があります。
嗚呼君能知我 而知君亦莫若我
(ああ君はよく我を知れり、しかして君を知るまた我にしくはなし)
勝の西郷への律義さはまだ続き、伊藤博文などに働きかけて嫡子の西郷寅太郎を参内させ、海外留学に明治天皇の手許金を下賜させました。勝は寅太郎の婚礼にも出席し、西郷の未亡人の糸子とも会って愉快な句を詠んでいます。
西郷の後家とはなすや夢のあと
明治31年師走に上野の西郷銅像の除幕式に出たあと、年が明けてなもなく1カ月たらずで海舟も西郷のもとに旅立ちました。