当時、「日発と九配電とで争っているのなら十分割はどうだ」とか、「アルプスを中心にした発送電会社をつくれ」といったような、全く無責任な発言をしてわたくしたちをとまどわせていました。
現在の「九電力案」は孤立していました。そして、採決になり、一対四となりそうな形勢でした。
このとき、松永安左エ門翁は、「こういうものに多数決は存在しない」という一点張りでした。
松永翁は、小田原に長く住んでいたので、小田原のイメージが強いのですが、長崎県壱岐市の出身で慶応義塾で福沢諭吉の師事を受けました。博多商工会議所の会頭をやったり、衆議院議員に福岡市から当選し、1期務めています。
また、死後、池田勇人首相(当時)が叙勲しようとしましたが、故人の遺言で遺族も一切受け取らなかったという気概の持ち主でした。
松永翁は「なに、負けるものか、まだいくさの最中だ。岩は割れるものだよ。ものごとはコン身の力をこめて打ちつづけると、いかなる巨大な岩でも、やがて小さなヒビがはいる。それをさらにつづければ、岩は自分の力でくずれていくものだ」と周囲に話していたそうです。
一時はGHQと険悪な雲行きになったこともありましたが、ついにGHQも了解し、「松永案による電力再編成」の指示が出されました。
ここで佐野氏が興味を引かれたのは、福島第一原発を誕生させた木川田一隆と木村守江というコンビでした。いずれも医者の血筋を引く家系でした。
福島県出身の有名人についてふれたとき、スポーツ選手や政治家にはあまりぱっとしない人間しか輩出して来ませんでしたが、こと医者となるとなかなかの人物が出ています。
「吉田肉腫」を発見して日本のがん医療に画期的な進歩をもたした石川郡浅川村(現・淺川町)出身の吉田富三がいます。
その吉田にしろ、木川田、木村にしろ、明治生まれの彼らにとって郷土の英雄といえば、野口英世だったに違いありません。
わたしもこどもの頃、太ももの骨折で2ヶ月ほど入院したことがあります。ここで読んだ本の中にも野口英世の伝記があり、わたしも医者になろうと思ったものです。わたしですら、そうですから、郷里の先輩が野口英世であれば、相当に憧れたことでしょう。容易に想像できます。
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