2011年12月26日月曜日

佐野眞一の津波と原発(31)

 昭和天皇がこの原子炉に異常なほどの関心を示したことは、間違いのない事実でした。この日の天皇は原子炉の炉心部を直接、上から覗くという信じられないほどの大胆さをみせました。原子力平和利用の社会的気運が、昭和天皇にこの大胆な行動を取らせたことは明らかでした。

この原子炉を、デモンストレーション用に運転まで行いました。一番困ったのは90パーセントの高濃縮ウランの管理問題だったといいます。まさか、会場に放置するわけにもいかず、そこで、毎日アメリカ大使館の公用車で濃縮ウランを運び、その日の運転が終わると、再びアメリカ大使館に戻すという網渡りのような芸当が編み出されました。

日本市場への売り込みでイギリスのコールダホール原子炉に先を越されたアメリカにとって、この原子炉は、それを巻き返すシンボル役でした。

正力松太郎の原子力キャンペーンが招き寄せた“天覧原子炉”こそは、平和利用の名のもと、濃縮ウラン技術を独占しつつ頒布して、西側諸国を核の傘の下に納めようとするアメリカ軍産複合体の最初の戦略でもありました。

それから10年後の昭和44(1969)109日午前350分、正力は富士山を望む病室でひとり息をひきとりました。84歳の大往生でしたが、家族の誰ひとり見守ることのない寂しい最期だったと佐野氏は書いています。

葬儀には、25000人もの参列者がつめかけました。

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