2011年12月9日金曜日

佐野眞一の津波と原発(15)

 原発地帯に入るとき、0.3マイクロシーベルトでアラーム音が鳴るように設定してあった放射線測定器は、佐野氏が双葉町に入ると、7.0マイクロシーベルトにあがり、ピー、ピーという神経にさわる音を間断なく鳴らしました。福島第一原発から1.5キロの地点では、73マイクロシーベルトまではねあがりました。

だが、この凄惨な畜舎の現場を見てから、佐野氏は放射線測定器を使うのをやめました。家畜がバタバタ餓死しているのに、自分だけ放射線から身を守ろうとするのは、間違っていないかもしれないが、どこか卑劣なふるまいだという気がしたのであると書いています。

富岡町の豚舎は、それ以上に凄惨でした。ほとんどの豚が折り重なるように死んでいました。

 豚舎のまわりの腐敗臭はすさましく、銀蠅が音を立てて死体のまわりを飛んでいました。共食いされたのだろうか、内臓がむき出しになった豚もいました。

豚舎の敷地には、「畜魂碑」と書かれた横長の石碑がありました。揮毫したのは、元福島県知事の木村守江氏です。

福島原発は、木村氏が前知事の佐藤善一郎氏の遺志を受け継いで誘致したものでした。

富岡町の隣の大熊町には14万羽も飼育する「花兄園」の大規模養鶏場があります。二階建ての養鶏場はシャッターが閉まっていましたが、すさまじい死臭で中のニワトリが全滅していることがわかりました。

中を開けると、カラスがすぐに気がついて、230羽が集団になって、低空飛行で襲ってきました。昔観たヒッチコックの『鳥』さながらの体験は、放射能以上に恐怖でした。

予想した通り、鶏舎の中のニワトリはすべて死んでいました。その写真を撮って、会津の猫魔温泉に避難している「花兄園」グループのピー・エス農産取締役の六郎氏に見せると、平本氏は写真を見るなり男泣きしました。

 「こんなになっちゃっただか。もうみんな死んでるな。いや、涙がとまんねぇ、ほんとに。とても見られたもんじゃないよ。正直、早くミイラになってほしいよ。ニワトリには本当に申しわけねぇ

オレは昭和41年からニワトリを飼い始めたんだ。オレ一代で、12000坪の農場にし、鶏舎も十棟つくったんだ。

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