イギリス原子力公社理事のヒントン卿を招き、読売新聞から捻出させた400万円の旅費提供によって来日したのは、昭和31(1956)年5月16日でした。
正力は原子力委員会に早速ヒントン卿を招き、彼の話を聞くと、たちまち熱病にとりつかれたようになった。
それまで正力は委員会を開くたびに、まだ発電炉などは世界中どこにもできていないし、だいいち発電コストが高すぎる、と各委員から言われつづけていた。それだけにヒントン卿の原子力発電は経済的にも安いという言葉は、正力にとって、千軍万馬の援軍を得たようなものでした。
ヒントン卿が提起したコールダホール原子炉の値段は、150億円という当時とすれば天文学的な金額でした。付帯設備をいわれると、その額は300億円を超えました。常識的に考えれば、外資不足に悩む当時の日本がとてもまかなえる金額ではなかったわけです。
しかし、正力は眉ひとつ動かしませんでした。
「いくら値段が高くたってペイするものなら安いよ」
正力が派遣したのは、民間と政府の二団体でした。最初に出発したのは民間系の日本原子力産業会議の視察団でした。
この視察団は、東電の社長として福島第一原発建設の指揮をとった木川田一隆(当時・東電副社長)、土光敏夫(石川島重工業社長)、小林中(日本開発銀行総裁)など、わが国の産業界を代表するメンバーで構成されており、さながら昭和の「岩倉使節団」の趣がありました。
イギリスに到着したのは、羽田を出発してから40日後の10月27日でした。ヒントン卿が正力にさかんに売り込みをかけてきたコールダホール原子力発電所は、彼らがイギリスに到着する10日前に完成したばかりでした。
ロンドンには、政府系調査団の一行10名もすでに到着していました。民間に先行した政府系調査団の団長の石川一郎(経団連会長)は、エリザベス女王も臨席したコールダホール原子力発電所の竣工式にも参加していました。
その夜、彼らは歴史上初めて、原子の火によって灯された光の下に立ちました。
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