その人物とは、昭和24(1949)年、日本人として初めてノーベル賞を受賞し、国民的英雄となっていた国際的物理学者の湯川秀樹でした。
湯川が正力の要請を断り切れなかったのは、ノーベル賞受賞の翌年、読売新聞の協賛で、読売・湯川奨学金をスタートしていたためでした。
原子力委員会の議論はもっぱら資源論に終始したといいます。
「わが国の主要エネルギー源である石炭、水力などについてみれば資源的にもまた経済的にも限度に達しつつあり、次第に需要に追いつかなくなることは火を見るより明らかであります。われわれが原子力発電をすみやかに実現してわが国産業経済の興隆に資したと念願している大きな理由もここにあります」。
正力声明から1ヶ月後の昭和31(1956)年2月3日、正力は首相官邸に産業界の代表70名あまりを招き、原発の早期導入の必要性を説きました。
正力は、自主・公開・民主の平和三原則にこだわって、一向に原発導入に踏み切れないでいる学者グループの日本学術会議に業を煮やしていました。
正力・柴田が目指した日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)は、首相官邸での設立懇談会から1ヶ月後の3月1日に、早くも設立されました。会長には東京電力会長の菅禮之助が選ばれました。
これ以降、原発導入の推進役はこの日本原子力産業会議が全面的に負うことになりました。
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