「結局、米国型の軽水炉は濃縮ウランが必要であり、軍事利用につながる恐れがあるといった単純な論理から、正力国務相自身が天然ウランで間に合う英国型炉の導入に傾いたのでした」
それを茨城県東海村に設置することを決めたのも、正力松太郎でした。
もともと東海村は、原子力研究所の敷地として選定されたものでした。
正力が原子力研究所の敷地を選定するにあたって最も重視したことは、広い敷地が確保できるかでした。正力は近い将来、原子力研究所と同じ敷地内に原子力発電所を併設する構想を持っていました。そのためには100万坪を超す土地がどうしても必要でした。
このとき有力候補にのぼっていたのは、群馬県の高崎、神奈川県の横須賀、茨城県の水戸周辺でした。
このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曽根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返されました。原子炉から出るアイソトープを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は”原子力温泉”の聖地として一躍観光化される、というのが、この運動の音頭ととった中曽根の持論でした。
当時、ラジウム温泉やこういう温泉の話がたくさんありましたが、どうなったのでしょう。この当時の放射線を出すために使われたのが、世田谷あたりで出てきたものではなかったでしょうか。
横須賀は三候補地のなかで最も有力な候補地でしたが、結局却下となったのは、社会党の志村が推薦するところに決定するのは好ましくない、という政治的判断があったためでした。また、高崎は汚染水の放流に難点があり、これも候補から消えました。
こうして第三の候補地といわれた水戸周辺の東海村が急浮上することになったわけです。東海村の決め手になったのは、100 万坪の広大な敷地があることでした。ここならば、正力がこだわる原発の併設も、スぺース的には十分可能でした。
東海村に白羽の矢が立てられたもう一つの理由は、そこが、警視庁出身で正力ともごく近い大久保留次郎の選挙地盤のためでした。
警視庁時代、特高課長、刑事部長などを歴任し、共産党を壊滅状態に追い込んだ昭和3(1928)年の三・一五事件では官房主事として大量検挙の指揮をとった大久保は、正力の前任の北海道開発庁長官をつとめた関係もあり、正力に早くから東海村誘致の陳情をひそかに続けていました。
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