ダレス国務長官は、被爆の事実を糊塗するため、ビキニの患者は放射線によるものではなく、“血清肝炎”によるものだと決めつけ、「第五福竜丸」の乗組員は、“スパイ”の可能性もあるとさえ言い放ちました。その上でダレスは、「日本人は“原子力アレルギー”にかかっている」と結論づけました。侮辱的なとんでもない発言です。
そんなダレス発言を信じる日本人はいませんでしたが、アメリカは原子力の平和利用という美名の裏で、核兵器の生産に狂奔していました。
原子力平和利用使節団の来日が決まって以降、読売新聞はすさまじいばかりの原子力平和利用キャンペーンに乗り出していきました。そこにはアメリカの国際的核戦略と、総理大臣を本気で狙う正力の露骨な政治的野心が重なり合っていました。どうも読売新聞というのは、昔から政治的な野心が大きいようです。
昭和30(1955)年1月から4月にかけての読売一面のトップの見出しを紹介しておくと、
「ウラニウムラッシュ わきかえる福島県“石川山”に、学生まで繰出し宝探し」
「原子力平和利用への道 国際科学者会議に期待 全世界の福祉へ協力」
「原子力発電時代 “電気の鬼”松永安左エ門さん語る」
「広島に原子炉 建設費2250万ドル 米下院で緊急提案」
「原子力マーシャルプランとは、無限の電力供給」
「米国内を洗う原子力革命の波 資本家も“発電”に本腰 ウオール街も増築景気」
「明日では遅すぎる原子力平和利用」
「原子力平和利用と日本 原子炉建設を急げ」
「原子力平和利用懇談会発足す 一日も早く実現へ」
この時期の読売は、さながら“原子力新聞”と化していたと佐野氏は書いています。
「原子力平和利用懇談会」とは、アメリカの原子力平和利用使節団を迎え入れるための受け皿組織です。
代表世話人には正力がおさまりました。
事務所も読売新聞社内に設けられました。
電力界の大御所の松永安左エ門などからは、「水力発電の方が採算的に安い。原子力発電はまだ時期尚早だ」と反対されました。
原子力平和利用使節団が離日して約1ヶ月後の同年6月21日、ワシントンで濃縮ウランの貸与に関する日米原子力協定が仮調印されました。
名古屋、大阪はもとより、北海道、九州まで巡回興行を打ち、日本じゅうに原子力平和利用ブームを撒き散らしていきました。
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