2011年12月25日日曜日

佐野眞一の津波と原発(30)

 昭和34512日、昭和天皇が見られたのは、東京のど真ん中に設置された原子炉でした。正力の原子力キャンペーンはついに天皇までとらえたのです。

天皇の謁見に浴した原子炉は、昭和3455日から22日まで、東京・晴海の国際見本市会場で開催された第三回東京国際見本市に展示された原子炉でした。

全取引契約金額156億円を数えたこの見本市の目玉商品は、アメリカ出展の原子力特設館に設置された実働原子炉UTR(University Training Reactor)でした。

この原子炉こそ、昭和天皇が生涯でただ一度だけ目にした原子炉だったのです。出力0.1ワットと超小型ながら、茨城県東海村でわが国初の臨界に達したJRR1原子炉に次いで二番目に臨界に達したのが、この原子炉でした。

正力は原子力平和利用の国論を形成するその一方、「国は原子力発電の開発に全力を尽くす。地方自治体はアイソトープの利用法の開発を手伝えってほしい」という言葉で、地方自治体に働きかけることも忘れませんでした。世論誘導には、長けています。

原子力委員会委員長就任直後になされたこの正力声明は、地方自治体のなかでも最も予算規模の大きい東京都にまずとりあげられました。

「東京都はいわば旧内務省の出先機関的色彩を強く帯びており、旧内務省OBの正力の意見は、きわめて通りやすい環境にあった」と佐野氏は書いています。

当時の都知事はやはり旧内務省出身の安井誠一郎でした。安井はこの正力声明を受け、昭和30(1955)12月、原子力委員会のメンバーを集め、アイソトープ研究機関設立のための公聴会を開きました。

こうして約4年後の昭和347月に東京・世田谷駒沢の国有農地に完成したのが、自治体初の原子力平和利用施設の東京都アイソトープ中央実験所だったのです。

昭和天皇は学者でいらっしゃるし、広島と長崎のことは一生わすれられないことだから、原子炉には非常に高い関心を示されていました。ある面、このことをPRに利用したようにも思います。

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