2012年12月23日日曜日

飛鳥から奈良へ(4)


推古3594)年に高句麗から僧の恵滋が日本に来ています。恵滋は、このあと20年間も日本に留まります。仏教を伝えることは、もちろんでしょうが、政治コンサルタントの色も強かったように思います。高松塚の装飾画など、高句麗の影響を強く受けているのも恵滋の指導かも分りません。605年には、飛鳥寺の大仏の資金として黄金300両を持って来るなど日本に接近していました。理由は、高句麗が、唐と新羅から挟撃されて苦しんでいたからです。隋は無理でも、せめて新羅を牽制して欲しかったのでしょう。日本は、過大評価されていたのかも分りません。

600年、隋の煬帝は、北方を巡幸します。そこで、遊牧民族の突厥の王・啓民可汗に会いますが、そこに高句麗の使者が来ていました。驚愕した煬帝は、高句麗征伐の決意をし、3回征討を行います。失敗に終わり、その重い負担で、618年隋は滅亡します。代わった唐は、624年、均田制を敷きます。660年百済が滅亡します。663年、大和朝廷は百済からの亡命王族に説き伏せられて、大船団を朝鮮に送りますが、白村江の海戦であえなく大敗し、朝鮮半島から撤退します。次いで、668年高句麗も滅亡します。大和朝廷は、唐が攻めてこないかと大混乱に陥ります。これ以降、710年の再開まで、遣唐使は途絶えます。

推古天皇は、夫の敏達との子の竹田皇子を皇位につけたかったのですが、皇子は早くに亡くなります。推古は、長寿で、628年に75歳で亡くなり、この竹田とともに静かに飛鳥で眠っています。推古の亡くなった年の628年、日本最古の日蝕が起こっています。96%程度の部分日蝕だったようです。

推古のあとは、蘇我蝦夷が強引に田村皇子を皇位につけます。34代舒明天皇です。そして、630年、第1回遣唐使を派遣しています。蘇我氏のいいなりでした。舒明天皇は、宝皇女との間に中大兄皇子、大海人皇子、間人皇女をつくります。宝皇女は、のちに35代皇極、37代斉明になります。宝皇女の弟に軽皇子(36代孝徳天皇)がいます。この遣唐使の派遣によって、中国に渡っていた留学生が帰国します。留学生にとっては、飛鳥と唐との違い、蘇我氏の専横が目に余ったのでしょう。遣唐使を再開していなければ、大化の改新もなかったかも分りません。

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