2012年12月22日土曜日

飛鳥から奈良へ(3)


 飛鳥時代は、飛鳥に始めて宮がおかれた推古天皇の592年から、藤原京に移る持統天皇の694年までの約100年間です。この間に、難波長柄豊崎宮、近江大津宮などに短期間、都が移ったことがあります。これ以前は、古墳時代と称されます。大化の改新以降を白鳳時代と呼ぶこともあります。

飛鳥時代とは、どういうところにあったのでしょうか、明日香村に行かれるとよく分りますが、この狭い村の中を天皇が代わるたびに宮が点々とします。神道思想で古いもの、汚れたものを嫌ったのでしょう。天皇が代わるたびに新しい宮を作りました。こういう狭いところで、豪族が角突き合わせていたわけです。帰化人が多かったので、日本語、朝鮮語、中国語が飛び交っていたことでしょう。今からは、想像できない国際都市だったのです。このような狭い宮から、遣隋使などを派遣したということも不思議な気がします。一度、明日香村に行かれて想像してみてください。

さて、592年に推古天皇が豊浦宮で即位しています。33代です。豊浦宮は、蘇我氏の邸宅のあったあの甘樫丘の北側にあります。豊浦宮も蘇我稲目の向原の邸宅の中にあったようです。蘇我蝦夷は、豊浦大臣と云われていました。蘇我氏は、飛鳥の見渡せる甘樫丘から天皇の宮ですら睥睨していたわけです。推古は、最初の女性天皇です。聖徳太子が摂政をつとめました。推古天皇は、32代崇俊天皇が蘇我馬子に暗殺されたあと、39歳で天皇になります。聖徳太子と蘇我馬子をうまく使ったようです。もともと蘇我系ですが、蘇我氏のいいようには、なかなかさせませんでした。31代用明天皇とは、同母兄妹です。しかし、用明の皇后の穴穂部間人を嫌ったようです。大好きな兄さんをとられた感じかも分りません。嫌いな女の息子の聖徳太子を天皇にはしませんでした。崇俊天皇、間人皇后、穴穂部皇子は、兄姉弟でした。炊屋姫(推古のこと)の夫の30代敏達天皇が亡くなった時に殯宮に炊屋姫は、穴穂部皇子に襲われますが、守衛の三輪逆に守られ、辛うじて身体を守ります。炊屋姫に肉体関係を迫り、天皇になるよう強く推してもらうつもりだったのでしょう。炊屋姫が、蘇我馬子に告げ、穴穂部皇子を殺させます。どうも女帝と権臣とは、つながりやすいようです。入鹿と皇極天皇もそういう関係でした。しかし、炊屋姫に嫌われた間人皇后も、少し性的にふしだらでした。主人の用明と他の女性(蘇我稲目の女・石寸名)との間の子の田目皇子と関係をもち、佐富王女までもうけます。狭い飛鳥では、相当の噂になったことだと思います。生涯一人の女性しか持たなかった太子は、このような噂が耳に入るのは、耐えられなかったでしょう。飛鳥を去り、斑鳩宮を造り、仏教三昧に耽ったのも分かるような気がします。

607年遣隋使派遣と日本書紀に書かれていますが、中国の「隋書」には、600年に倭国から使いが来たことが、記されています。遣隋使は、都合6回派遣されました。この当時は、朝鮮回りで中国に行ったために難破することもなかったようです。新羅との関係が悪くなり、東シナ海を横切るようになって、難破が増えました。

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