2012年12月21日金曜日

飛鳥、そして奈良へ(2)


538年(552年という説もある)、百済の聖明王が欽明天皇に釈迦如来像や経典、仏具を献上しました。これが、仏教伝来です。これ以降、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が、権力争いをします。蘇我馬子と物部守屋が戦うのが、587年。聖徳太子13歳の時です。蘇我氏が勝ち、このあとは、蘇我氏の専横が続きます。588年に蘇我馬子が飛鳥寺を建て、ここに609年、仏師の鞍作止利に飛鳥大仏を造らせています。高さ4.85mです。幾度も災難に遭い、顔も傷だらけです。しかし、不思議な印象のある仏像です。約1400年前の作品です。近くの畑に入鹿の首塚があります。首塚の見える丘の上が、甘樫の丘で、当時、蘇我氏の邸宅があったところです。天皇の宮が下にあり、常に見下ろされていたというのも不気味な感じがします。

聖徳太子は、622年、48歳で斑鳩宮(法隆寺近辺)で亡くなります。蘇我氏の全盛期でしたので、相当にストレスが溜まったように思います。それほど器用でない太子は飛鳥を離れ、斑鳩の地で仏教に帰依したのでしょう。しかし、わたしには、いまだに聖徳太子のイメージが、沸いてきません。旧千円札の像のようには、けっして思えないのです。

大化の改新の後、歴史の動きは速くなります。当時の性というのは、おおらかであったという人もいますが、ふしだらな感じもします。天智天皇は、大海人皇子から子までなした額田王女を奪います。また、同母妹の間人皇女が叔父の孝徳天皇に迎えられて皇后になったのにこれと関係を持ちます。これは、当時でも禁忌です。中大兄皇子、間人皇女らは、飛鳥に移ったために哀れ孝徳天皇は、難波宮に置き去りにされ、悶々のうちに亡くなります。この後、中大兄皇子は、天皇になり、滋賀の大津に遷都します。そして、子の大友皇子は、壬申の乱で大海人皇子に破れ、自害します。やはり呪われた王朝です。

この当時は、沓が以上に大きく、金鍍金され、魚や鳥のひらひらの飾りがたくさん付いています。こういう大きい沓を履いて普通に歩けるとは思えません。また、刀も非常に大きく、今の人でもとても振り回すことは出来ないでしょう。柄も環頭といって、大きな飾りがついています。大陸の人が使っていたのでしょう。しかし、出土された鎧、冑は、そう大きくありません。古墳に葬られるような王は大きく、鎧、冑を身に着ける兵士は小さかったのでしょうか。それとも、復元された沓や刀が大き過ぎたのでしょうか。

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