2012年12月20日木曜日

飛鳥、そして奈良へ(1)


 今回は、古代に飛びましょう。

飛鳥時代に天皇と並ぶ勢力をもったのが、葛城氏です。現在も地名となっています。
葛城氏は、雄略天皇(458-479)によって滅ぼされました。雄略天皇は、仁徳天皇の孫と云われています。葛城氏の本拠地は、現在の御所市にあります。西には、葛城山、金剛山の山なみが続きます。山麓を縫うように葛城古道があります。東に飛鳥があります。この時代、奈良盆地の中央部分は、湿地帯でした。したがって、山沿いに道が作られています。東側には、山の辺の道が山に沿いながら南北をつないでいます。大和の古道は、春あるいは秋の日差しの中を歩くと、気持ちのいいものです。景色は、当時と大きくは変わっていないのどかな風景です。写真の題材にもよくなります。故入江泰吉氏は奈良を代表する写真家です。しかし、奈良は誰が撮ってもそれらしく写ります。
葛城氏の中では、葛城襲津彦が歴史に登場します。葛城襲津彦は、新羅の討伐に行き、捕虜を連れ帰ったりしたようです。この時代を葛城王朝とも云われます。婿入り婚で、経済的にも天皇家を丸抱えしていました。葛城氏の土地からは、銅も採れました。銅鐸なども製造していたようです。余談ですが、この銅のとれた山は、堺屋太一氏の実家が所有されています。葛城氏は丹後、但馬の勢力とも連携しており、かなり豊かだったようです。葛城氏、蘇我氏、紀氏、平群氏、巨勢氏は、先祖が、天皇族と同じという意味で、臣(おみ)という姓(かばね)を使っておりました。物部氏、大伴氏は、連(むらじ)です。これは、天孫降臨の頃から、天皇の家来の家系です。大和政権は、これらの豪族による連立政権の形をなしておりました。

この時代は、謎が多々あります。蘇我氏の出所も不明です。百済の王族の一族とも言われています。葛城氏の支族とも云われています。葛城氏は、当時の天皇(天皇号が成立したのは、天武天皇以降です。日本という国号を作ったのも天武帝です)と同等以上の権力を持っていました。これを天皇家は、物部氏や大伴氏の軍事勢力を使って葛城王族を打倒しました。このあとは、蘇我氏が葛城氏のあとをおい、飛鳥では、天皇に代わる実権を持っていたようです。そして、645年に中大兄皇子、中臣鎌子、蘇我石川麻呂らによって、蘇我入鹿を暗殺します。大化の改新です。教科書では、蘇我氏の横暴を抑えるために若き中大兄皇子などが決起したと書かれています。しかし、真の理由は、別にあったようです。蘇我入鹿は、当時の天皇のパトロンであり、早くに夫を亡くした皇極天皇の愛人でした。入鹿と皇極天皇の間に皇子が誕生すると、その皇子が中大兄皇子らを差し置いて、皇太子になり、天皇になることを心底恐れたためです。このために急ぐ必要があり、中大兄皇子らは、博打を打ちました。いずれにしろ、この大化の改新によって天皇族以外の並立王族は滅亡しました。飛鳥の有名な石舞台は、蘇我の馬子の墓と云われています。

0 件のコメント: