2012年5月1日火曜日

佐高信の「原発文化人50人斬り」(10)

高木仁三郎
残念ながら、高木氏については、名前すらも知りませんでした。原発文化人ではありません。
「原発批判派のシンボル的存在だった高木は、東大の理学部を出て、日本原子力事業に入るという、原子力問題ついて、反対派どころか、『批判派ですらなかった』わけですが、徐々に目覚めてゆきます。
東海村JCO臨界事故に、病躯をおして発言する高木の姿を見て、それこそ『胸を張り裂ける』思いがしたが、そうした場合でも、高木は『それ見たことか』と勝ち誇ったような顔はしなかった。過ちや誤りを人間のもとし、それでもなお前へという高木の不屈の姿勢に私は搏たれる。

大分の、『豆腐屋の四季』を書いた松下竜一さんが、まさにそうですね。教科書にも載るような模範青年が、火力発電阻止で立ち上がって、つきあう人間がアカの過激派だという。街中の避難を浴びる。
脱原発の運動に携わる中で、原発推進の側にいたということが、一つの贖罪になってくるわけですね。高木さんのように真摯であればあるほど、贖罪意識も強くなる。
宮澤賢治のいい意味での能天気さというのは、高木さんの『最後まで希望を失わない』とか、『希望の組織化』といったものの基だったんじゃないかということです」
佐高氏は、高木仁三郎に多くのページを割いていますが、ここでは、大きく割愛しました。

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