2009年6月14日日曜日

興福寺の西金堂

 あの阿修羅像があったのは、興福寺の西金堂です。興福寺には三つの金堂がありました。現在、復原工事が進んでいる中金堂とその東に立つ東金堂、そして西にあった西金堂です。近鉄奈良駅にもっとも近いところです。今は礎石と碑しか残っていません。
 平安遷都の折に藤原京の厩坂にあった藤原氏の氏寺の厩坂寺を現在地の左京三条七坊に移転し、興福寺と名称を変更しました。中金堂がいつ建ったかは不明ですが、藤原不比等が亡くなった養老4年(720年)までには完成していたと思われます。
 東金堂は、神亀3年(726年)に、元正太上天皇の病気の平癒を祈願して、聖武天皇が建立しました。その4年後に、光明皇后が五重塔を建てました。西金堂は、天平6年(734年)、光明皇后が生母、橘三千代の一周忌の追善供養のため建立しました。三千代は不比等の妻であり、後宮において絶対な力を振るったと言われます。
 東西金堂は中金堂を中心にしてほぼ左右対称の位置にありますが、厳密には対称ではありませんでした。西金堂は10mほど中央寄りでした。この理由は、東金堂は天皇(元正)のために建ち、西金堂は臣下(橘三千代)のために建てられたからでしょう。この非対称の差は、目に見える形で仏堂とその配置に反映されています。東金堂と五重塔は対になって荘厳さを増しています。さらに回廊で囲まれています。西金堂は建物こそ大きいのですが、金堂のみで回廊もありません。その差は明らかです。光明皇后は、西金堂の中には、東金堂に負けない仏像を造らせました。西金堂に納まった仏像については、『興福寺流記』に詳細な記録があります。丈六釈迦如来像1体、脇侍菩薩像2体、羅漢像10体、梵天・帝釈天像各1体、四天王像4体、八部神王像8体など30体にのぼります。釈迦如来を中心とする一大群像でした。建物も仏像もわずか1年で完成し、僧400人によって落慶供養が営まれました。羅漢像は十大弟子立像として6体、八部神王像は八部衆立像として8体とも残っており、興福寺国宝館で拝観できます。八部衆立像の1体が、あの人気ナンバー1の阿修羅像です。これらは奈良時代創建期の今に残る数少ない仏像で、脱活乾漆と呼ばれる製作技法です。阿修羅像を見ていますと、やはり仏像の製作を女性がさせたように思われます。このモデルは、少年のような気もしますが、仏師は、光明皇后のイメージから作像したのではと考えてしまいます。
 正倉院文書では、西金堂の仏像を造るために集めた漆の量が20石9斗1升とあります。今の量に換算すると約15立方メートルとなります。また、「仏師将軍万福」、「画師秦牛養」という名前も残っており、渡来系の仏師集団の活躍がうかがえます。阿修羅像は、仏師将軍万福らの作と伝わっています。
 治承の大火で興福寺は伽藍とともに多くの寺宝も焼失しました。西金堂も同様でした。さらに後世も何度となく火災をくぐり抜けて来ました。阿修羅蔵を会えることは奇蹟のように思えます。明治初年の廃仏毀釈で興福寺も全山廃寺の憂き目にあい、おびただしい寺宝が損壊、散失したといいます。それでも残った寺宝のすばらしさに感動します。
 西金堂は薪能の起源においても深い縁があります。薪能は、5月11日と12日に南大門跡で四座が競演します。能が興福寺の庇護の元に発展した左証です。金春座など能の発祥は、すべて奈良です。
 薪能の起源にさかのぼると、貞観11年(869)、西金堂で修二会が始まっています。東大寺二月堂修二会(お水取り)が有名ですが、別名観音悔過と呼ばれるように、観音菩薩に懺悔して国家泰平五穀豊穣四民快楽を祈願する行事です。修二会、薪能も宗教活動であったことにひしぎ差を伴います。いずれにしましても、奈良に行けば、仏像、寺をはじめ、古代文化を直に見ることができます。唐招提寺の平成の大修理ももうじき終わります。

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