国立歴史民族博物館の研究チームは、箸墓古墳やその他の遺跡から出土された土器などから放射性炭素年代の調査を行い、箸墓古墳の築造年代を西暦240~260年とはじき出しました。もしこの計算が正しければ、卑弥呼が亡くなったとされる年代と合うことになり、邪馬台国の近畿説の有力な後押しになります。この放射性炭素年代測定については、明日、述べたいと思います。この放射性炭素年代測定は、植物などに含まれる炭素の一種の「C14」が5730年で半減するという特性を生かし、残存する炭素量を調べるものです。これまで、縄文時代の測定に主に使われてきたようです。1万年前ですと、誤差が±500年ほど、1000年前でも±200年ほどあるようです。
そこで、問題になるのが、今回、国立歴史民族博物館の研究チームが発表した内容です。まず、この箸墓古墳は、宮内庁管理ですので、発掘は行えません。したがって、周辺の地域で発掘された土器などに付着した炭素を採集して、試験機にかけて測定したものです。この「C14」は、宇宙から飛んできたものですので、試験した炭素が宇宙から放射線を受けておれば、そこから半減期に入りますし、炭素に不純物があると、誤差が大きくなります。したがって、国立歴史民族博物館の研究チームが発表したように240~260年の範囲とするのは、素人から見ましても、かなり強引なこじつけのように思われます。これまでは、いくら遡っても300年までと言われておりました。したがって、卑弥呼の墓というよりは、次の女王である壱(台)与の墓の説の方が分があるように思います。
これまで箸墓は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされていました。倭迹迹日百襲姫は、崇神天皇の祖父孝元天皇の妹でしたが、三輪山の神である大物主神の妻となったとする神婚伝承があります。しかし、この神は夜にばかり通ってきて姿を見せないので姫は、「まだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さい」とお願いしました。大物主神は、「明朝お前の櫛箱の中に入っていよう」と答えました。姫は朝、櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだしました。すると、大物主神は人の姿に戻り、「よくも私に恥をかかせたな」といって三輪山に帰ってしまいました。姫はたいへん後悔し、箸で陰処を突いて死にました。人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされています。
この箸墓の伝説と卑弥呼の話は、かなり違うように思われますし、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓は円墳です。箸墓古墳は、全長が280mもある前方後円墳です。無理にこじつけた感があります。また、纒向古墳群を卑弥呼の家来の古墳としていますが、これも時代が逆です。纒向古墳群は、前方後円墳の前の帆立貝式の古墳です。
九州説の有力な根拠は、鉄器が近畿よりもはるかに多く出土していることです。鉄器と青銅器では戦争になると勝負になりません。また、吉野ヶ里遺跡など大規模集落跡があることです。わたしは、やはり邪馬台国は北九州にあって、それが東征して大和に移って、大和政権を樹立したと考える方があっているように思います。しかし、最近は、自治体の支援なども近畿説を後押ししているようです。明日は、放射性炭素年代測定について述べます。
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